太宰治のご両親や、きょうだいのことが知りたいなぁ。
よし。そしたら、今回は太宰の生家である「津島家」について解説しよう。
本記事では、太宰治の父・母・きょうだいを1人ずつ紹介します。
なお、記事中の年齢は、当時の慣例にならって「数え年」で表記しました。
現代の通例となっている「満年齢」に直したい場合は、記事中の年齢から1歳引いて考えてください。
生まれた時点で「1歳」とし、以降、正月を迎えるたびに1歳ずつ加える、年齢の数え方。
津島家の家系図
太宰治は、本名を「津島修治」といいます。彼の家である「津島家」の家系図は、上記のとおりです。
以下では、この家系図に出てくる太宰の家族について、1人ずつ詳しく見ていきます。
父:源右衛門
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.4
津島源右衛門は、1871年(明治4年)に青森県木造村で酒造業を営む松木家の四男として生まれ、もともとは「松木永三郎」という名前でした。
18歳のときに、津島家の長女だった「たね(当時16歳)」の婿となり、その後、津島家の将来の当主として相応しい「源右衛門」に改名しています。
そして、30歳で太宰の曽祖父から、津島家の家督を相続しました。
ちなみに、家督が一代飛ばされているのは、太宰の祖父は、病気ですでに他界していたためです。
源右衛門は、家督を相続した1年後に県議会議員となり、県内の長者番付では4位へ躍進。築いた富で、大邸宅を建てました。
▼太宰の生家は、現在「斜陽館」として観光名所になっている
源右衛門が39歳のとき、この豪邸で初めて生まれた子どもが、修治(太宰治)です。
その後、42歳で中央政界へ進出して衆議院議員になり、52歳で多額納税によって貴族院議員に選出されるも、翌年に病没しました。
源右衛門は、表に出るときは気難しい性格に見られがちでしたが、酒の席ではよく人を笑わせ、友人にあだ名をつける名人だったと言われています。
また、彼は派手好きで、大豪邸を建てたのも、政界に進出したのも、この性格によるものと考えられます。
もしかしたら、太宰の「道化」的な性格は、父の源右衛門から受け継がれたものかもしれません。
ただ、太宰本人としては、政治活動で忙しく、あまり家にいなかった父を恐れていたようです。
その証拠に、太宰が小学生の頃に書いた「僕の幼時」という作文には「僕の一番家でこはいものは父様であつた。故に父様の前では常に行儀よくして居た」と書かれています。
母:タ子(たね)
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.4
太宰の母親の津島たねは、1873年(明治6年)に津島家の長女として誕生しました。
姉妹には6歳下に「きゑ」がおり、彼女は後に修治(太宰治)の育ての親となる人物です。
たねは、控えめで優しい性格だったので、津島家に仕える使用人たちからは、とても好かれていたといいます。
しかし、たくさんの子どもの「母」であると同時に、政治家の「妻」でもあったことから、多忙を極め、37歳で修治を産んだ頃には、体調を崩しがちに。
このため、修治には生まれてすぐに乳母がつけられ、この乳母が津島家を離れると、たねの妹のきゑが、修治の面倒を見るようになりました。
しかし、修治への愛情がなかったわけではなく、むしろ津島家の誰よりも彼を気にかけていたのが、たねでした。
修治が津島家から離縁されてしまった後も、たねは密かに仕送りを続けています。
そんな彼女は、危篤の報を受けて駆けつけた太宰に見守られながら、70歳で息を引き取りました。
長女(第1子):たま
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.5
津島たまは、1889年(明治22年)に、源右衛門とたねの第一子として誕生しました。太宰から見ると、年齢は20歳上です。
たまは、頭脳明晰で容姿端麗。「津島璋子」の名で、和歌を詠むこともあった彼女は、村の娘たちの憧れの的だったといいます。
弟や妹たちからも、優しい姉として慕われていました。
たまは19歳で平山茂三郎と結婚しましたが、その5年後、こじらせた風邪が悪化して、24歳の若さで命を落としています。
長男(第2子):総一郎
津島家の長男として、1892年(明治25年)に生まれたのが津島総一郎です。
しかし、総一郎は、生まれてからわずか2ヵ月ほどで亡くなっています。
次女(第3子):とし
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.5
津島としは、1894年(明治27年)に津島家の第3子次女として誕生しました。年齢的には、太宰の15歳上です。
同じ町の商家の長男、津島市太郎に嫁いだ彼女は、1913年(大正2年)に津島逸郎を出産しました。
逸郎は、太宰ととても関わりの深い人物です。
修治(太宰治)の4歳下だった逸郎は、お互いの住居が近かったこともあり、修治と礼治(太宰の弟)と、幼少時から仲良しでした。
▼左から、逸郎・礼治・修治
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.12
逸郎・修治・礼治は、その後3人とも県立青森中学校へ入り、下宿先に同居していたこともあります。
特に、礼治が中学生の頃に亡くなってからは、修治は逸郎のことを実の弟のように可愛がりました。
逸郎のほうも修治を慕っており、彼の影響を受けて、左翼思想に傾倒し始めます。
そして、左翼活動を始めた逸郎が警察に検挙されたことがきっかけで、「逸郎に影響を与えた人物」として、修治が青森警察署から出頭を命じられる事態となりました。
そこで、修治が兄の文治に付き添われて警察に出頭したのが、いわゆる「自主事件」です。
逸郎は中学を卒業した後、医学生となりました。
太宰とも引き続き親交を続けましたが、その頃の太宰はといえば、心中事件を起こしたり、パビナール中毒になっていたりした時期。
憧れの人の落ちぶれた姿を見て、ショックを受けた逸郎は、太宰の名を借りて友人からパビナールを入手すると、25歳の若さで服毒自殺をしてしまいました。
太宰は、可愛がっていた甥が自分に何も言わずに命を絶ったことに対し、衝撃を受けることとなります。
さて、話をとしに戻すと、彼女は母のたねに似て、上品で器量の良い女性だったと言われています。
離縁された太宰の妻である美知子に対しても、優しく接してくれる人でした。
そんな彼女は、太宰が亡くなったのと同じ1948年(昭和23年)に、55歳で亡くなっています。
次男(第4子):勤三郎
津島勤三郎は、津島家の次男として1896年(明治29年)に誕生しました。
しかし、残念ながら生後6日で亡くなっています。
三男(第5子):文治
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.4
津島文治は、1898年(明治31年)生まれで、年齢は太宰の11歳上です。
文治は、源右衛門とたねの三男だったものの、長男と次男が早逝しているため、“津島家の長男”として育てられます。
このため、太宰が作品や随筆で「長兄」と書く場合は、この文治のことを指します。
文治は、早稲田大学の政治経済学部を卒業しており、大学の同窓生には、後に太宰の師匠となる井伏鱒二がいました。
大学を卒業する前年に、岡崎礼と結婚。そして、卒業の翌日に亡くなった父の源右衛門に代わって、津島家の家長となります。
その後は金木町長を経て、県議会議員に。反共を掲げる保守系の政治家として、活動をしました。
しかし、弟の修治(太宰治)は大学に入ると、兄の思想とは真逆の左翼活動を始めます。
これを知った文治は、「身内に左翼活動家がいると、自らの政治生命が危ぶまれる」と考え、修治が芸妓の小山初代と結婚するのを認める代わりに、縁を切ってしまうことにしました。
この強引な切り捨ては、太宰が鎌倉で心中事件を起こす原因の1つになったと考えられます。
心中事件があってからは、太宰は文治にとって、大きな悩みの種となりました。
文治はその後、40歳で衆議院議員に初当選。しかし、後援者の選挙違反が発覚したことから、この当選は辞退します。
それ以降、10年ほどは政界から身を引きましたが、戦後に行われた衆議院議員選挙で再び当選。
このときは、作家として名が知れていた太宰も、兄の選挙活動に協力しました。
その後は、青森県知事や参議院議員を歴任し、参議院議員の在任中に76歳で亡くなっています。
四男(第6子):英治
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.4
四男の津島英治は、1901年(明治34年)の生まれ。年齢としては、太宰の8つ上です。
英治は、東京の商業学校を卒業後、津島家とゆかりの深い金木銀行で経理の仕事をしています。
「政治家の兄、文治」と「奔放な弟、修治(太宰治)」に挟まれた英治。彼が大変な苦労をしたことは、容易に想像できます。
実際に英治は、文治の選挙活動をサポートしたかと思えば、修治が引き起こすさまざまな事件にも対応。
修治が津島家から縁を切られた後も、英治は何かと世話を焼いてくれました。
太宰はこの英治について、『兄たち』という作品で下記のように描写しています。
次兄は、酒にも強く、親分気質の豪快な心を持っていて、けれども、決して酒に負けず、いつでも長兄の相談相手になって、まじめに物事を処理し、謙遜な人でありました。
引用:『兄たち』太宰治
五男(第7子):圭治
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.4
1903年(明治36年)生まれで、年は修治(太宰治)の6つ上の津島圭治は、修治にとっては、一番年が近い兄です。
東京の中学へ通っていた圭治は、青森の実家に東京で売られている同人雑誌を送ってくれて、修治はその雑誌を読んで文学への興味を深めました。
圭治は中学を卒業すると、のちに東京芸大となる「東京美術学校」の塑像科へ入ります。
しかし、病弱のため、あまり学校へは通わず、自宅で塑像を作ったり、前衛的な絵を書いたり、詩を書いたりして過ごしていました。
「十字街」という同人誌にも参加していた圭治は、「夢川利一」というペンネームで表紙やカットイラストを描いています。
また、修治が中学生の頃には、一緒に「青んぼ」という同人誌を作りました。
修治は兄弟のなかでも芸術肌な圭治に憧れを抱いており、東大に入って上京してからは、近所に住んで、たびたび圭治の家を訪ねています。
しかし、圭治は28歳の若さで病没。憧れの兄の早すぎる死に、太宰は大きなショックを受けたものと推測されます。
三女(第8子):あい
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.5
津島あいは、津島家の三女として、1904年(明治37年)に生まれました。年齢は、太宰の5つ上です。
あいは23歳で結婚し、津島家から除籍となります。
その後、34歳の若さで4人の子どもを残して亡くなりました。
四女(第9子):きやう
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.5
四女の津島きやう(名の読み方は「きょう」)は、1906年(明治39年)に生まれ、年齢は修治(太宰治)の3つ上です。
きやうは、23歳で小館貞一と結婚しました。
この結婚がきっかけで、小館貞一の弟である小館善四郎と修治の交友が始まり、当時、高校生だった修治は、年齢が5つ下の善四郎を弟のように可愛がりました。
▼前列の一番右が小館善四郎、左から二番目が太宰
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.38
その後、帝国美術学校へ入った善四郎は、学友の鰭崎潤を太宰に紹介します。
鰭崎はクリスチャンで、太宰とよく聖書の話をしました。太宰はこの鰭崎との出会い以降、作品にキリスト教の要素を取り入れるようになります。
また、善四郎は、太宰がパビナール中毒を治すために入院している間に、太宰の妻の小山初代と不倫。これが、太宰と初代が心中未遂事件を起こす原因となりました。
そんな善四郎の義姉である、きやうは1945年(昭和20年)に40歳で亡くなっています。
六男(第10子):修治=太宰治
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.5
のちに太宰治となる津島修治は、1909年(明治42年)に、津島家の第10子六男として誕生しました。
修治は幼少時、家族や使用人たちから「修ちゃ」と呼ばれていました。
修治の幼少期については、下記の記事で詳しくお伝えしています。
七男(第11子):礼治
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.5
修治(太宰治)の唯一の年下のきょうだいである第11子七男の津島礼治は、1912年(明治45年)に生まれました。年齢は、太宰の3つ下です。
幼い頃から美少年だった礼治。ニキビに悩む修治は、礼治のことを嫉妬していたといいます。
中学は修治と同じく青森中学校へ進み、二人は同じ下宿で同居生活をします。その後礼治は、修治が創刊した同人誌「蜃気楼」にも参加しました。
修治と仲が良かった礼治でしたが、中学在学中に鼻の手術をした際、敗血症にかかってしまい、18歳の若さで亡くなります。
まとめ
本記事では、太宰の両親ときょうだいを紹介しました。
なお、記事を執筆するにあたっては、以下の書籍を参考にしています。
- 『評伝 太宰治〈上・下〉』相馬正一.津軽書房,1995
- 『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治.新潮社,1983
- 『太宰治の年譜』山内祥史.大修館書店,2012
- 『太宰治大事典』志村有弘・渡部芳紀.勉誠出版,2005
それぞれの書籍の概要については下記の記事にまとめていますので、ご興味のある方は、併せてご覧ください。
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