太宰治って、小さい頃はどんな子どもだったの?
よし。幼少期の太宰の様子を一緒に見ていこう。
本記事では、太宰治が誕生してから小学校を卒業するまでの様子を当時の写真を見ながら辿っていきます。
なお、記事内の年齢は、当時の慣例にならって「数え年」で表記しました。
現在、一般的な「満年齢」に変換したい場合は、表記の年齢から1歳引いて考えてください。
生まれた時点で「1歳」とし、以降、正月を迎えるたびに1歳ずつ加える、年齢の数え方。
▼本記事の内容は、動画でもご覧いただけます。
青森県の金木村で誕生
「太宰治」はペンネームで、彼の戸籍名は「津島修治(つしま しゅうじ)」といいます。
修治は、明治42年(1909年)の6月19日に、青森県金木村(かなぎむら)で、父 源右衛門と母 たねの第10子六男として津島家に誕生しました。
修治が生まれた金木村は、青森県の北西部、津軽半島の中央付近に位置します。
金木村は、1955年に金木「町」になりましたが、2005年の市町村合併によって、現在は「五所川原市」に編入されています。
太宰は、『もの思う葦』という随筆のなかの「ソロモン王と賤民」という章で、「私は生れたときに、一ばん出世していた。」と書いています。
事実、父の源右衛門は、県議会議員も務める大地主で、青森県内の長者番付では4位に名を連ねるほどのお金持ちでした。
住んでいる居宅も、部屋数が20近くある大豪邸です。
▼太宰の生家。現在は「斜陽館」として観光名所になっている
この家には、太宰の両親ときょうだいのほかに、以下の方々も同居していました。
- 曽祖母 さよ
- 祖母 いし
- 叔母 きゑ
- きゑの娘 4名(りえ・ふみ・キヌ・テイ)
- 使用人 約20名
合計すると、30名以上が一つ屋根の下に暮らしていたことになります。
なお、太宰の両親ときょうだいについては、下記の記事で詳しく紹介しているので、ご興味のある方は併せてご覧ください。
きゑとタケに育てられる
▼2歳の頃の太宰
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.9
修治の母 たねは、たくさんの子どもの「母」であると同時に、政治家だった源右衛門の「妻」でもありました。
彼女の生活は多忙を極め、修治が生まれた頃には、体調の優れなかった日が多かったといいます。
そこで修治には、生まれてすぐに、実母に代わって乳母が付けられることになりました。
しかし、この乳母は再婚のために、1年足らずで津島家を去ります。
乳母の代わって修治の面倒を見ることになったのが、叔母の「きゑ」でした。
▼きゑは夫に先立たれており、津島家の大豪邸に同居して、4人の娘を一人で育てていた
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.5
これ以降、幼少期の修治は、大半の時間をきゑと過ごすことになります。
太宰本人も、『思い出』という作品で、自分の幼少時代を以下のように振り返っています。
叔母についての追憶はいろいろとあるが、その頃の父母の思ひ出は生憎と一つも持ち合せない。曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母と叔母の娘四人の大家族だつた筈であるが、叔母を除いて他のひとたちの事は私も五六歳になるまでは殆ど知らずにゐたと言つてよい。
引用:『思い出』太宰治
さて、そんな修治が4歳になった頃、タケという15歳の少女が、きゑ専任の女中として、津島家に住み込みで働き始めました。
タケに与えられた仕事は、幼い修治の「子守り」。
タケは修治に本の読み方を教えてあげたり、一緒にお寺へ行って地獄絵の説明をしてあげたりと、熱心に修治を教育しました。
▼修治がタケに連れられて見に行った、雲祥寺の地獄極楽の御絵掛地
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.10
幼い太宰を育てた、きゑとタケの二人については、下記の記事でより詳しくお伝えしています。ご興味のある方は併せてご覧ください。
修治にタケが付けられたのと同じ頃、父の源右衛門は中央政界へ進出して、衆議院議員に当選しています。
これによって、源右衛門は金木よりも東京での暮らしが多くなり、母のたねも夫に付いていくため、両親とも家を空けがちになりました。
二人が金木に帰ってくるのは、せいぜい1、2ヵ月に1回。帰ってきても、1週間くらいで再び東京へ戻ってしまいます。
そのため、父が帰ってくるときには、家の中に張り詰めた空気が流れたそうです。
修治も小学生の頃に書いた『僕の幼時』という作文で、「僕の一番家でこはいものは父様であつた。故に父様の前では常に行儀よくして居た」と書いています。
修治の勘違い
▼前列の左から、母 たね、太宰、叔母 きゑ
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.11
両親と過ごす時間がほとんどなく、主に叔母のきゑと生活していた幼き修治は「自分は、きゑの子どもだ」と勘違いをしていました。
修治よりも10歳ほど年上のタケでさえ、修治のことを、きゑの長男だと思っていたそうです。
この勘違いは、修治が実母を認識してからは、「自分は父と叔母の間に生まれた、不倫の子なのでは?」という妄想へと変わっていきます。
実際、父の源右衛門に妾がいることは、村中で噂になっており、修治もどこかでこの話を聞いていたと思われます。
修治はやがて、自分の鼻が大きいことを気にしだし、きょうだいのなかでも母親似で顔が整っている、兄の圭治、姉のきやう、弟の礼治らに嫉妬をするようになりました。
そこで修治は、「醜い自分が、器量の良いきょうだいと対等になる」ため、「秀才」になることを目指すようになります。
そんな修治が、尋常小学校へ入る直前のこと。
きゑが、娘夫婦と一緒に隣町の五所川原へ引っ越すことになり、タケも彼女たちに付いて行ってしまいます。
修治も一度は一緒に五所川原まで行きますが、小学校へ入るため、2ヵ月ほどで実家へ逆戻り。
こうして、修治は、きゑ・タケと離ればなれになってしまいました。
尋常小学校では神童扱い
▼左から2番目で笑っているのが、小学生の頃の太宰
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.13
さて、修治が入ることになったのは「金木第一尋常小学校」という学校。
この学校の中では、地域の有力者である津島家の子どもは特別扱いで、成績は必ず「全甲(今でいうオール5)」が付けられていました。
しかし、修治はそんな特別扱いなど無関係に優秀な生徒で、教師たちからは「神童」と呼ばれます。
特に国語と作文の授業では、圧倒的な才能を見せつけていたといいます。
ただ、修治はいわゆる「ガリ勉」タイプではなく、むしろヤンチャ坊主といえる生徒でした。
校内では、よくイタズラをして先生に怒られ、廊下に立たされていたそうです。
高等小学校で学力補充
▼太宰が高等小学校時代に書いた、『僕の幼時』という作文
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.14
尋常小学校を卒業した14歳の修治は、「明治高等小学校」へと進学します。
しかし、この進路は、成績優秀な修治にとって不自然なものでした。
というのも、当時の通例では、優秀な生徒は尋常小学校を卒業した後、「県立中学校」へ進むことが多かったからです。
修治が進んだ「高等小学校」はどちらかというと、「学力的・経済的な理由で中学校へ進めない者が行くところ」というイメージがありました。
この修治の不自然な進学の背景には、彼の兄たちが関係しています。
実は、修治の兄の英治と圭治は、尋常小学校を卒業後、「弘前中学校」へ進学したのですが、授業に付いていけず、途中で退学して東京の私立中学へ転校していました。
この兄たちの体たらくを見ていた父親は「おそらく、修治も中学では付いていけないだろう」と考え、「学力補充」のために、高等小学校へ1年間通わせることにしたのです。
こうして修治は高等学校へ進学することになったのですが、これが彼にとって良い経験になります。
というのも、修治が入学した明治高等小学校には、津島家の威光は及んでおらず、彼はそこで生まれて初めて「真の外の世界」に触れることができました。
修治は農家出身の子どもたちと接するなかで、地主である自分の実家を、客観的に見られるようになります。
この高等小学校で修治は、お得意の「道化」を演じ、みんなの人気者でした。
授業中はふざけてばかりだったので、「修身(道徳)」と「操行(品行)」の成績を低く付けられてしまったほどです。
▼高等小学校時代の成績表(「甲」が並ぶなか、一番上の「修身」には「乙」が付けられている)
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.15
こうして、あまり熱心に勉強をしなかった修治は、受験校を「弘前中学」から「青森中学」にランクダウンさせることになってしまいました。
そんな修治が、中学受験を目前に控えた時期、当時は貴族院議員として東京で暮らしていた父の源右衛門が、病気のために急逝します。
これによって、津島家の家督は長男の文治へと継がれました。
「この世で一番怖かった父」がいなくなった太宰。これが、のちに彼の堕落につながることは、この時点ではまだ誰も知りません。
まとめ
本記事では、太宰治の生涯のうち「生誕〜高等小学校時代」を見てきました。
なお、これに続く「太宰の中学時代」は、下記の記事でお伝えしていますので、ご興味があれば併せてご覧ください。
また、記事を執筆するにあたっては、以下の書籍を参考にしました。
- 『評伝 太宰治〈上・下〉』相馬正一.津軽書房,1995
- 『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治.新潮社,1983
- 『太宰治の年譜』山内祥史.大修館書店,2012
- 『太宰治大事典』志村有弘・渡部芳紀.勉誠出版,2005
それぞれの書籍の概要については下記の記事にまとめていますので、ご興味のある方は、併せてご覧ください。
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— コカツヨウヘイ|元司書のライター (@librarian__y) September 5, 2023