今回は、太宰治が高校生のときに書いた、『股をくぐる』という作品を紹介します。
まずは、この作品が執筆された背景からお伝えしたいと思います。
執筆背景
高校2年生の頃、自ら立ち上げた「細胞文藝」という同人雑誌で、『無限奈落』の連載を始めた太宰。
しかし、その内容が実の父を貶めるものだったため、兄から連載にストップをかけられてしまいます。
これを受けて、『無限奈落』は連載の第2回で中止。
そして、次号の「細胞文藝」で発表されたのが、今回紹介する『股をくぐる』です。
それでは、気になる本作のあらすじを見ていきましょう。
あらすじ
老婆のおにぎり
「わあっ!」
みぞおちを小槍で刺されたかのような驚愕に、思わず叫び声を上げた韓信。
彼は川べりで眠っていたのですが、そこへ突然、「じゃぼん!」という大きな音が飛び込んできたのです。
音のした方へ目をやると、老婆が洗濯を始めたところのようでした。
その老婆を睨みつける韓信。
しかし、老婆は構わずに洗濯を続けています。
「もう少し静かに洗ってくれ。俺は眠っているんだ」
韓信はこう声をかけましたが、老婆は何も言わず、しげしげと韓信の顔を見つめるばかり。
すると、唐突に老婆が「お前、飯を食べてるのか?」と聞いてきます。
実は、韓信は寄宿していた家を追い出されてしまい、その日は朝から何も食べていませんでした。
韓信は空腹なのに痩せ我慢をして、悠然と釣りをしに川までやってきていたのです。
「若者がそんな寂しい顔をしているのは、おかしいわな。そら、これでも食わんかい」
こう言って、老婆は韓信の方に、粟のおにぎりを投げてよこしました。
しかし、施しを受けるのは、韓信のプライドが許さず、これを投げ返します。
そのおにぎりは放物線を描いて、老婆の股の間に落ちました。
老婆への復讐
韓信はおにぎりを返した後になって、変に寂しい気持ちになってきました。
「婆さん、飯をもらってやらあ」
そう言って、老婆からおにぎりをもらい、それを齧ると、韓信は仰向けに寝転びました。
ここで彼は、老婆から施しを受けたことを後悔し始めます。
「どうして俺は、飯をねだったりしたのだろう」
「あの婆さんは、どうせ俺がねだることを知っていたんだ」
「この恥辱を、なんとか仕返しできないものか」
韓信の瞼の裏には、忌々しい老婆の姿が浮かび上がってきます。
しょぼしょぼした赤い目。
大きな口。
妙に太っている足首。
そして……
ここで韓信は、あることを思い立ちます。
「あの婆さんを驚かせてやろう」
そこで颯爽と老婆の方へ振り向いた韓信でしたが、もうそこに彼女の姿はありません。
敗北感を覚えた韓信は、手に持っていた食べかけのおにぎりを、川に向かって投げつけたのでした。
青年たちの罵倒
その後、人通りの少ない道を歩いて行く韓信。
あまりの暑さに、意識が朦朧としてきました。
もはやこの時には、老婆への復讐など、どうでも良くなっていました。
ふと気がつくと、韓信は12、3人の青年たちに囲まれています。
彼らは口々に、韓信のことを罵倒してきました。
「俺はどうしても、お前のようなやつは好きにはなれねえ」
「いつも偉そうなことを言ってるが、どうせ女に惚れられようと思って言っているのだろう」
韓信は俯いて、「あるいは、そうかもしれない」と思っていました。
その後も、罵詈雑言を浴びせかけてくる青年たち。
韓信はこの場から逃げようとしましたが、青年の一人に阻まれてしまいます。
そこで意識が朦朧としてきて、地面にうつ伏せになってしまった韓信。
そのまま目を閉じて、気を失いました。
「……おーい、みんな、見ろ!」
韓信の頭上で、青年の声が響いています。
やっと目を覚ました韓信は、自分の体の上に青年が股をかけていることに気付きました。
必死の力で跳ね起きて、その青年を蹴飛ばした韓信。
そしてそのまま、いつの間にか周りを囲っていた群衆の方へ向かって、走り出しました。
冷静になった韓信
沼地の方まで走ってきた韓信は、やっと心が落ち着いてきたので、今日一日の出来事を冷静に振り返ることに。
このとき、たくさんの人に見られながら、青年に跨がられていたことを思い出した韓信は、悔しさから、目には涙が溢れてきました。
さらに、これに輪をかけるように、あることを思い出します。
「自分は老婆を驚かすため、老婆の股をくぐろうとしていた……」
涙と汗が溢れ出し、体が震えてきた韓信。
「どうしたらいいんだ……」
韓信はおもむろに、そばに生えていた竹に齧り付きましたが、自分の馬鹿馬鹿しい取り乱し方に「道化」を感じて、やるせない寂しさに襲われます。
ふと、上の方に目をやると、もう鼠色に暮れ始めた夏の空に、竹の先端が高く突き出していました。
竹の頂上付近では、葉が悠然と揺れています。
何もかもが、ゾッとするほど、はっきりと見えました。
「出世……将軍……復讐……」
韓信は放心したように、いつまでも竹のそばで横たわっていました。
なぜ、『股をくぐる』を書いた?
この『股をくぐる』は、「韓信の股くぐり」という故事成語がモチーフになっています。
韓信は、中国が「漢」だった頃の武将です。
貧しい家に生まれた彼は、本作と同じように、ある日、釣りをしていると、近くで洗濯をしていた老婆から食べ物を恵まれます。
そこで韓信は「いつか、このご恩に報いる」と老婆に言ったところ、「自分で食えもしないのに、何を言っているんだ」と叱られてしまいました。
また、あるとき街中で、剣を身につけているのを若者から馬鹿にされ、「勇気があるなら、俺のことを刺してみろ。できないのなら、俺の股をくぐれ」と言われた韓信。
ここで彼は、その若者をじっと見て、何も言わずに彼の股をくぐりました。
その後、韓信は将軍にまで上り詰めたことから、「韓信の股くぐり」は、「大きな目標を達成するためには、小さな恥は耐えなければならない」という意味の故事成語になりました。
この『股をくぐる』を書く前に、太宰は横槍を入れられるかたちで、自信作『無限奈落』の連載を中止しています。
おそらく、これは太宰にとって、とても悔しい体験であり、「今は、韓信と同じように耐えるべきときだ」という思いから、この『股をくぐる』を書いたものと推測されます。
おわりに
今回は、太宰治の『股をくぐる』という作品を紹介しました。
本作は、新潮社から出版されている『地図』という文庫本に収録されていますので、興味を持っていただけたなら、ぜひ実際に読んでみてください。