今回は、文豪にして軍医のトップも務めた、森鴎外の生涯を紹介します。
それでは、さっそく一緒に見ていきましょう。
森鴎外の生涯
医学を志す
森鴎外、本名「森林太郎」は、江戸時代の末期にあたる1862年に、石見国津和野藩で誕生しました。
この津和野藩は、現在の島根県津和野町にあった藩です。
鴎外の父は医者で、彼は幼い頃から、父と同じ医者になるための教育を施されました。
5歳から論語を習い、7歳になると藩が運営する「養老館」という学校へ通い出します。
こうして医者になるための勉強を着々と進めていましたが、ちょうどその頃に起こったのが「明治維新」です。
廃藩置県によって、すべての藩は廃止され、鴎外が通っていた学校もなくなってしまいました。
このとき、東京へ行くことになった津和野藩主が、鴎外の父を医者として呼び寄せたため、鴎外も一緒に上京することに。
東京にやってきた鴎外は、同郷の哲学者、西周の家に下宿しながら、医学を学ぶために必要になったドイツ語の学校に通い出します。
その勉強の甲斐あって、鴎外は東大医学部の前身にあたる学校に、入学の条件が「14歳以上」のところ、年齢を偽って11歳で入りました。
こうして医学を本格的に学び始めた鴎外でしたが、同時に「漢詩」にも興味が湧いてきて、漢学者への師事を開始。
医学の勉強に専念しなかったこともあって、卒業したときの成績は全体の8位でした。
これは学年最年少だったことを考えると悪くない順位でしたが、成績上位者の特権だった「留学生」に選ばれるのは望み薄です。
そこで鴎外は、同期の勧めで陸軍に軍医として入ることにしました。
ドイツ留学
軍医の仕事を始めた鴎外は、2年半ほど経った22歳のとき、念願のドイツ留学を命じられました。
ドイツでは、さまざまな都市を巡って最先端の医学を学び、同時期に留学していた北里柴三郎とも交流を持ちます。
そんな鴎外は、このドイツ留学で運命の女性と出会いました。
彼女の名前は「エリーゼ」といい、鴎外の名作『舞姫』に登場するヒロインのエリスのモデルとなった人物です。
やがて二人は恋仲になり、鴎外が帰国した際には、エリーゼも後を追って来日しています。
一方で、鴎外の留学中に日本では、西周によって海軍中将の娘「赤松登志子」との縁談が整えられていました。
それもあって、エリーゼが来日した際には、森家の親族や知人が彼女の宿泊先をたびたび訪ねて、ドイツに帰るよう交渉します。
その結果、エリーゼは帰国し、鴎外は彼女のことを忘れられないまま、登志子と結婚することになりました。
執筆開始
結婚をした後、鴎外は縁談を取り持った西周から、読売新聞での連載の仕事をもらいました。
ここから、鴎外の文学方面での活躍が始まります。
まずは、「小説論」という評論を紙面に掲載した鴎外は、得意のドイツ語を活かして、外国文学の翻訳小説を発表。
その翻訳小説が、評論家の徳富蘇峰の目に止まり、彼が主催する雑誌「国民之友」で『於母影』という訳詩集を発表することになります。
この『於母影』の評判がとても良く、その後、単行本としても刊行されました。
こうして得た原稿料を元手にして、鴎外は「しがらみ草紙」という文学評論が中心の雑誌を創刊します。
やがて、翻訳小説だけではなく、オリジナルの小説にも挑戦し始め、その第一作として発表されたのが『舞姫』でした。
また、文学方面での大活躍と並行して、本業の軍医の仕事もきちんとこなした鴎外。
このように仕事面ではとても順調でしたが、エリーゼのことが忘れられなかったのか、登志子との結婚生活は、あまり上手くいきませんでした。
結婚した翌年には、長男の於菟(おと)が誕生したものの、その1ヵ月ほど後に、鴎外が家を出て別居を開始。
そのまま二人の仲は修復されず、ついに離婚となってしまいました。
文豪と軍医
登志子と離婚してからも、執筆活動は積極的に行っていた鴎外。
日清戦争が勃発した際には、軍医の仕事に専念したものの、戦争が終わると、また執筆を再開し、東京の文学者たちとも交流を持ちました。
しかし、そんな鴎外が中央文壇から遠ざけられる出来事が起きます。
それは、福岡県の小倉への左遷です。
軍の内部の力関係で、小倉へ赴任することになった鴎外は、執筆活動を控えるようになり、代わりにフランス語や仏教の勉強を始めました。
そんな小倉時代に、鴎外は裁判官の娘、荒木しげと再婚をします。
当時の鴎外は40歳で、21歳のしげとは、だいぶ歳の差があったものの、美人と評判だった、しげとの再婚に、鴎外は大変喜んだそうです。
こうして始まった小倉での結婚生活は上手くいき、二人は4人の子どもに恵まれます。
この子どもたちに対して、国際感覚が豊かだった鴎外は、「茉莉(まり)・杏奴(あんぬ)・不律(ふりつ)・類(るい)」という、当時としては珍しい名前を付けました。
その後、軍の配置転換で東京に戻ってきた鴎外は、日露戦争が始まると軍医として出征。
無事に帰国してからは、「医務局長」という軍医としてトップの役職に就きます。
また、小倉時代は控えていた文筆活動にも再び精を出し始め、「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」など、秀作を次々に発表しました。
こうして、医学と文学の両面で成功を収めた鴎外でしたが、50歳のとき、彼の文学に大きな影響を与える事件が起きます。
それは、「明治天皇の崩御」と、それに伴う「陸軍大将 乃木希典の自刃」です。
乃木大将とは同じ陸軍の将官で、交流があったこともあり、鴎外はこの事件に大きなショックを受けたといいます。
これをきっかけに、鴎外は「武士の価値観」に興味を持ち始め、『阿部一族』などの歴史小説を書くようになりました。
その後、軍医のトップ「医務局長」を8年半務めて、54歳になった鴎外は、ここで軍から離れることを決意。
引退後は、現在の国立博物館にあたる「帝室博物館」の総長と、皇室関係の文書の管理をする「宮内省の図書頭」を兼任しましたが、60歳で結核のために逝去します。
遺言書では、「森林太郎」としてあの世に行きたいと綴り、「墓は森林太郎墓のほか一字もほるべからず」と遺族に指示しました。
その鴎外の墓は当初、東京の向島にある弘福寺に建てられましたが、関東大震災の後には、三鷹の禅林寺と、出生地である島根県津和野町の永明寺に改葬されています。
おわりに
今回は、森鴎外の生涯をざっくりと紹介しました。
森鴎外に興味を持っていただけたなら、ぜひ実際に彼の作品を読んでみてください。