落語

【稀代の落語家】立川談志の生涯を紹介。

今回は、『人生、成り行き―談志一代記』という本をもとに、落語家 立川談志の生涯を紹介します。

それでは、さっそく一緒に見ていきましょう。

落語好きな少年

1935年12月2日。

東京は小石川で生まれた立川談志。

ちなみに、本名は松岡克由といい、戸籍上の生年月日は、翌1936年の1月2日です。

松岡家は引越しの多い家で、談志は小石川から各所を転々として、小学校へ入る頃に、大田区の鵜の木という土地に落ち着きました。

この頃から談志は読書が好きで、貸本屋に通い詰め、さまざまな本を読み耽ります。

しかし、当時は太平洋戦争の真っ只中。

しだいに東京への空襲が激しくなってくると、母方の実家がある埼玉県へ疎開することに。

このときは食べ物が少なくて、だいぶひもじい思いをしたそうです。

やがて終戦を迎え、東京に帰ってきます。

そこで、また貸本屋通いを始めた談志が手に取ったのが、『落語全集』。

これが、彼と落語との出会いでした。

そして、小学5年生のとき、談志は伯父に連れられ、浅草の寄席を訪れます。

ここから落語に夢中になって、談志の寄席通いが始まりました。

中学に入ってもそれは変わらず、14歳の頃には、「落語家になろう」と決めていたそうです。

その後、高校に進学はしましたが、早く落語家になりたくて、親にそれとなく「落語家になりたい」と伝えます。

しかし、そこで母親から返ってきた言葉は、「恥ずかしいからやめてくれ」。

「もういいや」と思った談志は、そのまま寄席へと向かいました。

実は、寄席に通うなかで、いつもいる身なりの良い紳士に、前々から目をつけていた談志。

その人の正体は演芸評論家で、談志が「落語家になりたいのですが」と相談してみると、「誰の弟子になりたいんだ?」と話を聞いてくれました。

そこで談志が、後に人間国宝になる「柳家小さん」の名前を挙げると、その人から紹介してもらえることに。

後日、母親と一緒に小さんの家を訪ね、談志は弟子入りを許可されます。

このとき母親も、小さんの暮らしぶりを見て、安心していたそうです。

こうして談志は、16歳で高校を辞めて、憧れの落語界に飛び込んだのでした。

師匠のもとで修行

さて、落語家には、大きく分けて3つの階級があります。

まず、一番下っ端が「前座」。

師匠の家の雑用をしたり、寄席で裏方の仕事をしたり、トップバッターとして高座に上がったりしながら、落語家としての基礎を学びます。

その後、入門から3〜5年経って、師匠に実力を認めてもらえると、「二つ目」に昇進。

二つ目になると雑用から解放され、高座で自分の芸をひたすら磨いていくことになります。

そして、二つ目としてさらに10年ほどの修行を重ねた末に、最高位の「真打」へと昇進します。

真打になれば、寄席でトリを務める資格が与えられ、弟子を取っても構いません。

小さんに弟子入りした談志は、まず前座として、「柳家小よし」という名前を与えられました。

毎朝早くに師匠の家に行って雑用をし、昼からは寄席に入って裏方仕事をする毎日。

師匠からのお小言をくらい、理不尽に思うこともしばしばでした。

そんな修行に耐え抜き、18歳の春に晴れて「二つ目」に昇進。

ここで名前が、「柳家小ゑん」に変わります。

これとちょうど同じ時期に創刊されたのが、週刊新潮。

談志は、そこに載っていたアメリカンジョークを「おもしろい」と感じ、海外のネタ本を読むようになりました。

これがきっかけで、やがて演芸場で落語のほかに、スタンドアップコメディを披露し始めます。

すると、キャバレーから声がかかって、ショーに出演するように。

この評判が大変良かったので、ほかの複数のキャバレーからも呼ばれて、談志はそこで荒稼ぎをしました。

それから、ラジオやテレビにまで出演し、彼の名前は世間に知られていきます。

一方で談志は、落語にも熱心に取り組み、有望な若手落語家が集まる落語会にも参加していました。

その会には、談志より少し後に入った、後の3代目古今亭志ん朝や5代目三遊亭円楽の姿も。

さらに、談志はこの頃に結婚もしており、公私ともに順風満帆な生活を送っていました。

真打へ昇進

談志が26歳のとき、後輩にあたる志ん朝が、入門してからわずか5年で真打に昇進することになります。

同じく、談志の後に入門した円楽も、その半年後に真打へ昇進。

後輩に追い抜かれた談志は、自分の実力が彼らよりも劣っているとも思えず、大変悔しい思いをしたといいます。

円楽の昇進から半年経って、ようやく真打となった談志。

ここで落語家としての名前が、「柳家小ゑん」から「立川談志」に変わりました。

その後、テレビに出演しながら作った人脈を通じて、「笑点」の立ち上げに関わり、自ら司会を務めます。

しかし、わずか2年半ほどで、番組から降板。

その理由の1つが、「選挙への出馬」でした。

この当時はタレント議員ブームで、石原慎太郎や青島幸男らが参議院議員を務めていました。

「ブームが来ているのに、それに乗っからないなら落語家の資格はない」

そう言って、談志は衆議院選挙で、東京の選挙区から無所属で出馬。

結果、2万もの票を獲得したものの、あえなく落選してしまいます。

しかし、談志はめげずに1年半後の参議院選挙に出馬すると、今度はギリギリ最下位で当選を果たしました。

こうして国会議員になった談志は、誘いを受けて自民党へ入党。

4年ほど議員を務めると、沖縄開発庁の政務次官に任命されました。

しかし、そのわずか1ヵ月後、沖縄へ視察に行った際に二日酔いで記者会見に出席。

その態度の悪さにバッシングを受けて、政務次官を辞任すると、自民党からも離党してしまいます。

談志は、この経験が芸人としての開花につながったといいます。

騒動の直後に出演した寄席では、呼び込み担当が、「政務次官をしくじった奴が、これから出ますよー!」と大声を上げていました。

その日は、高座に出るだけで客の反応がすごかったそうです。

このとき談志は、芸は「上手・下手」「おもしろい・おもしろくない」ではなく、「自分の人間性をいかに出すか」なんだと悟りました。

その後、議員としての任期が終了しても、談志が再び立候補することはありませんでした。

立川流を創設

談志が政界から離れてからおよそ1年後、「落語協会分裂騒動」が起きます。

事件の発端は、談志の師匠である小さんが落語協会の会長になったことです。

当時は演芸ブームもあって、落語会には二つ目が4,50人ほど溜まっており、彼らの昇進が遅れていることが問題になっていました。

そこで小さんは、いっぺんに10人を真打へ昇進させることにします。

真打昇進は、せいぜい半年に一人か二人が慣例だったため、これは異例の措置でした。

このため、落語協会の前会長が猛反対。

協会の中で、意見が真っ二つに割れてしまいます。

ついに話がこじれて、前会長の一派が落語協会を離れ、新しい団体を立ち上げることになりました。

そこで談志は、その新団体に同世代の志ん朝と円楽とともに参加することに決めます。

しかし、前会長に「次世代のリーダーは誰ですか?」と聞いたところ、「志ん朝」と言われたため、それが不満で談志はすぐに脱退。

師匠に詫びを入れて、落語協会へと出戻ります。

その後、新団体は数ヵ月で解体してしまい、そこに参加していた落語家たちは、次々と落語協会に戻ってきました。

さて、落語協会では、騒動の発端となった「真打の昇進」について議論を重ね、昇進試験を導入します。

ただ、試験とは名ばかりで、これを受けた落語家は全員合格していました。

当然、「それはおかしい」という声が上がり、3回目の試験からは、審査を厳しくすることに。

その審査員だった談志は、試験当日、仕事のために欠席したところ、なんと二人の弟子が落とされてしまいました。

これに激怒した談志は、再び落語協会から出ることを決意。

47歳で、立川流を創立します。

この立川流の特徴は、「弟子から上納金を取る」こと。

師匠が弟子から金を取るなんてことは、今までの落語会では考えられないことでした。

ここで談志が「生け花なんかは家元制度で、当たり前に弟子から月謝を取っている」と言ったので、その後談志は、周りから「家元」と呼ばれるようになります。

立川流ができると、ビートたけしや放送作家の高田文夫など、何人もの有名人が弟子入り。

また、志の輔、談春、志らくといった、超一流の落語家たちを育て上げ、立川流の実力を世間に見せつけました。

このあたりの時期から、談志自身の落語にも変化が起きたといいます。

それまで談志は、落語のことを「人間の業の肯定」と表現していました。

「世間で言われている、親孝行だの勤勉だの、努力をすれば報われるだのってのは、結局、嘘じゃないか」

「人間というのは弱いもので、親にムカつくこともあれば、働きたくもない」

「努力をしたって、無駄なものは無駄」

「所詮はそういうものじゃないのか」

「けれど、落語は、そんな人間の弱さを肯定してくれるものだ」

談志は落語を、このように説明していました。

ただ、時代が変わり、平気で親を殴る子どもがいて、仕事はしなくて当然という人が出てきて、努力は馬鹿にされるようになりました。

今まであった、「人間は弱さを克服するもの」という風潮がなくなってきてしまったのです。

そこで談志は、人間の中の「イリュージョン」というものに注目します。

人間の心の底には、無意識に「コレがしたい」「アレがほしい」という欲望があるものの、それらをすべて表に出すと、社会が無秩序になってしまう。

そこで人間は、「常識」というフィクションを拵えて、自分を律しながら過ごしている。

「落語は人間を描く以上、そういう“不完全さ”も表現しなければならない」と、談志は語っています。

さて、そんな談志は60歳を過ぎた頃、食道癌の疑いから手術を受けることに。

結局それは癌ではなく、談志は「がんもどき」だと冗談を言っていましたが、このあたりの時期から、自分の体調との戦いが始まります。

年を重ねるごとに、体に老いを感じ、肉体と精神の分離に苦しんだ談志。

その後、喉頭癌や糖尿病にも苦しめられ、2011年の11月21日、75歳で亡くなります。

没後の戒名は、生前に自ら考えた「立川雲黒斎家元勝手居士」でした。

おわりに

今回は、『人生、成り行き―談志一代記』という本を参考にしながら、立川談志の生涯を追いました。

家元の落語は、たくさんのCDやDVDに残っていますので、興味を持った方は、ぜひ聴いてみてください。