今回は「漫画の神様」とも呼ばれる、手塚治虫の生涯を紹介します。
それでは、さっそく一緒に見ていきましょう。
いじめられっ子
1928年11月3日。
手塚治虫(本名:治)は、大阪府豊中市で3人きょうだいの長男として生まれました。
彼は5歳のとき、兵庫県の宝塚市へ引越しをしています。
小学生時代の手塚治虫は、背が低くて痩せていたこともあり、クラスメートからいじめられていました。
「どうして、自分はいじめられるのだろう?」
彼は、その理由を「勉強もスポーツも苦手で、何もできないからだ」と考え、何か特技を身に付けることにします。
そこで思いついたのが、「漫画」です。
当時、漫画は今ほど市民権を得ていなかったものの、手塚治虫の両親は漫画が好きで、家にはたくさんの漫画本がありました。
その漫画を読んで育った手塚治虫は、見様見真似で自分でも漫画を描き始めます。
そうして完成した漫画をクラスメートに披露してみると、なんと大好評。
いじめっ子たちからも一目置かれ始めた手塚少年には、次第に友達もできてきます。
このときにできた友達の影響で虫が好きになり、特にお気に入りの「オサムシ」から名前を取って、漫画を描くときのペンネームを「治虫」にしました。
戦争体験
手塚治虫が中学校へ進学してから、第二次世界大戦が勃発します。
彼は視力が悪かったので、徴兵の検査は不合格になったものの、体力を向上させるため、「修練所」という施設に入れられることになりました。
ここでの環境はかなり劣悪で、まともに食事もさせてもらえません。
そのせいか、手塚治虫は腕が腫れる病気にかかってしまいます。
このときに、医者が病気をすっかり治してくれた体験から、彼は医者に憧れを抱くように。
戦争が終わる直前に大学に入って、医学を学ぶことになります。
さて、少し時を戻して、戦争の真っ只中の頃。
修練所から解放された手塚治虫は、学校へ行く代わりに、工場で働かされていました。
近所も空襲に見舞われて、大勢の方が亡くなっているところを目の当たりにしたこともあります。
こんな状況下でも、手塚治虫は大好きだった漫画を描くことだけはやめませんでした。
そうして迎えた、1945年の8月15日。
この頃には、学校も工場も空襲で焼けてしまっていたため、その日、何もすることがなかった手塚治虫は、家で漫画を描いていました。
一応、玉音放送は聞いたものの、国民の奮起を促しているのだろうと思い込み、聞き流していた手塚治虫。
しかし、周りの人たちの様子を見て、日本が戦争に負けたことを悟ります。
電車で大阪まで行ってみると、百貨店のシャンデリアの灯りが灯っていました。
これは、灯火が規制されていた戦時中では、あり得ない光景です。
この瞬間、手塚治虫は「ああ、生きていてよかった」という、深い感動に包まれたといいます。
そして、この体験こそが、彼が生涯漫画を描き続ける支えとなりました。
医者と漫画家
戦争が終わると、手塚治虫は戦時中に書き溜めた漫画、毎日新聞の大阪本社へ送りつけます。
その際に同封した手紙では、「敗戦の虚無感を払い除けるには、笑いとユーモアしかない。新聞には、漫画が必要である」と熱弁したそうです。
これを見た毎日新聞から、「子ども向けの新聞に、4コマ漫画を描いてみないか?」という連絡があり、『マアチャンの日記帳』という作品の連載がスタートしました。
このときの手塚治虫は、17歳。
当時の彼は、大学で医学を学んでいる最中で、医学生と漫画家の二足のわらじを履くことになりました。
その後、手塚治虫は酒井七馬という、関西の漫画界の長老と知り合います。
そこで漫画を見てもらうと、「合作で長編漫画を描こう」と持ちかけられました。
ここで完成したのが、『新宝島』という作品です。
『新宝島』は、構図に映画の手法を取り入れた革新性もあって、大ベストセラーに。
後の漫画家たちにも、多大な影響を与えることになります。
こうして、漫画家として成功を収め始めた手塚治虫でしたが、医学生としては行き詰まっていました。
というのも、〆切に追われるがあまり、授業中にも漫画を描いていたため、卒業に必要な単位を全然取れていなかったのです。
教授からは、「このまま続けていても、君は良い医者にはなれない。諦めて、漫画家になりたまえ」と言われる始末でした。
そこで、手塚治虫は、自分の進路を母親に相談してみたところ、「本当に好きなのは、どちら?」と聞かれます。
この言葉に、「自分が本当に好きなのは、漫画だ」と気付かされた彼は、東京へ行って、漫画家になることを決心しました。
ただ、手塚治虫は完全に医学を捨てたわけではなく、ここで一念発起して勉強に励み、国家試験に合格。
医者の肩書きも、きちんと手にしています。
さて、その後、手塚治虫は東京へ出てきて、出版社への持ち込みを始めました。
しかし、どの出版社からも、良い返事はもらえません。
そんななか、学童社という出版社を訪れたところ、対応してくれた方が「手塚治虫」の名前を知ってくれていました。
そこで、その方に見てもらった原稿が、『ジャングル大帝』です。
この『ジャングル大帝』が気に入ってもらえて、学童社が発行する「漫画少年」という雑誌で連載が始まると、手塚治虫は瞬く間に人気作家となりました。
それから、彼のもとには執筆依頼が殺到し、『鉄腕アトム』や『リボンの騎士』といった不朽の名作を次々と生み出していきます。
こうして、漫画家としての地位を確立した手塚治虫は、活動の拠点を東京に移すべく、豊島区にあるトキワ荘へと引っ越しました。
その後、このトキワ荘には、手塚治虫を慕って、藤子不二雄や赤塚不二夫、石ノ森章太郎といった有望な若手漫画家たちが集まってくることになります。
夢だったアニメ制作
人気漫画家になった手塚治虫には、ある夢がありました。
それは、「ディズニーのようなアニメーションを作りたい」ということ。
この夢の原点は、彼の幼少期にまで遡ります。
手塚治虫の両親は、漫画のほかにも映画が好きで、家には父親が買ってきた小型の映写機がありました。
幼き日の手塚治虫は、その映写機を使って、よく映画を観ていたそうです。
また、毎年正月になると、母親に連れられて大阪まで行き、ポパイやディズニーなどのアニメ映画を観るのが手塚家の恒例でした。
このような体験から、小さな頃からアニメーションが大好きだった手塚治虫は、漫画を描いて得た原稿料を資金にして、アニメの制作会社を立ち上げます。
そして、1年かけて『ある街角の物語』というアニメーション作品を制作。
この作品は、国内でブルーリボン賞などを獲得し、世間からの評判は上々でした。
そこで、次に手塚治虫が取りかかったのは、彼の人気漫画『鉄腕アトム』のアニメ化です。
さっそくスポンサーを見つけてきてアニメを制作し、テレビ放送が始まると、アトムは一気に大人気に。
やがて、アメリカにも『アストロボーイ』というタイトルで進出することになります。
こうして、漫画とアニメの両方に、寝る間も惜しんで取り組んだ手塚治虫でしたが、働きすぎが祟って、ついに体を壊してしまいました。
そして、60歳の若さで永眠。
彼は亡くなる直前まで漫画を描き続け、最後の言葉は「頼むから、仕事をさせてくれ」だったといいます。
おわりに
今回は、手塚治虫の生涯を紹介しました。
手塚治虫に興味を持っていただけたなら、ぜひ彼の作品を読んでみてください。