「アニメや漫画に出てくる“吉原”って、どんな場所だったの?」
本記事では、このような疑問にお答えするため、江戸時代の吉原の簡単な歴史に触れてから、遊郭の所在地や行き方、粋な遊び方などを紹介します。
これさえ読めば、当時の吉原の雰囲気やイメージをつかめると思いますので、ぜひ最後までご覧ください!
吉原遊郭の簡単な歴史

まずは、江戸時代に吉原遊郭が誕生するまでの簡単な歴史をご紹介します。
- 1603年:徳川家康が江戸に幕府を開く
- 1612年:庄司甚右衛門が幕府公認の遊郭設立を申し出る
- 1617年:遊郭設立の許可が降りる
- 1618年:人形町に元吉原が開業する
- 1656年:元吉原の移転が命じられる
- 1657年:元吉原が明暦の大火で焼ける
- 同 年:日本堤に新吉原が開業する
元吉原の誕生
1603年、徳川家康が江戸に幕府を開くと、日本全国から労働者や商人が大勢集まってきました。
その結果、江戸の市中では、男性の人口が女性の1.5倍ほどになったと言われています。
このように「男性が多い」江戸では、男たちを相手にする「遊女屋」が自然発生的に現れます。
しかし、しだいに遊女屋には浪人や犯罪者が居着くようになり、このままでは市中の治安の悪化が懸念されました。
そこで1612年に、自身も遊女屋を営む庄司甚右衛門が、仲間と協議のうえ、町奉行に「幕府公認の遊郭を作り、遊女屋を一箇所にまとめて欲しい」と願い出ました。
この申し出は認められ、5年後の1617年に遊郭設立の許可が出て、庄司甚右衛門はその惣名主(リーダー)に任命されます。
そして、さっそく現在の日本橋人形町3丁目付近に遊郭を作り始め、翌年1618年から営業を始めました。
当時のその周辺は、ヨシの草が生い茂る湿地帯だったことから、遊郭は「吉原」と呼ばれるようになります。
この場所の面積は、約40,000㎡。東京ドームが46,755㎡なので、それよりは一回り小さいくらいの大きさです。
画像出典:「大吉原展 カタログ」東京芸術大学大学美術館・東京新聞,2024,p.18
市街の整備が進められた結果、上記のような街並みが完成しました。
なお、遊郭は後に別の場所に移転されることから、この人形町に作られた遊郭は「元吉原」と呼ばれます。
新吉原へ移転
元吉原ができてから、江戸は急速な発展を遂げます。
その結果、当初は辺鄙な場所だった元吉原も、40年ほど経つと江戸の中心地といえる場所になっていました。
これを受け、1656年に町奉行は「遊郭が市街地にあるのは、風紀上思わしくない」と考え、元吉原の代表者に移転を命じます。
そこで町奉行から、「移転先は従来よりも広い面積が与えられる」「1万500両の移転料が出る」などの好条件を提案されたこともあり、代表者たちは移転を受け入れます。
こうして、遊郭は浅草寺の北側にある「日本堤」付近へ移ることになりました。
移転の決定から1年後、江戸で「明暦の大火」が発生します。
画像出典:ウィキペディア「明暦の大火」
これは江戸時代最大の火事とも言われ、江戸の街並みの大半を焼き尽くしました。
もちろん元吉原も甚大な被害を受け、新天地に移るまでは、近くの百姓の家を借りて営業をすることになります。
その後、新しい遊郭である「新吉原」への移転が進められ、今でもよく知られる「吉原遊郭」が作り上げられました。
なお、本記事ではこれ以降、この「新吉原」のことを単に「吉原」と表記します。
吉原遊郭の場所と行き方
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(加筆)
吉原遊郭は、上の地図のように浅草寺の北側にありました。
江戸の中心地から吉原まで行く際、よく使われたのは以下の3つのルートです。
- 隅田川コース
- 馬道コース
- 下谷コース
画像出典:「大吉原展 カタログ」東京芸術大学大学美術館・東京新聞,2024,p.101
まず、「隅田川コース」では、柳橋で舟に乗って、隅田川を北上します。
そして、山谷堀あたりで降りたら、日本堤を歩いて吉原に向かいました。
なお、下記の記事では、このルートを実際に辿ってみた様子を写真とともに紹介しています。ご興味があれば併せてご覧ください。
続いての「馬道コース」は、武士がよく使ったルートです。
このコースでは、駒形あたりから馬に乗って日本堤まで行き、そこからは隅田川コースと同様に、歩いて吉原を目指します。
最後の「下谷コース」は、上野あたりからひたすら歩いて吉原へ向かう、「裏道」的なルートでした。
吉原の入り口と遊郭の構造
画像出典:ウィキペディア「名所江戸百景」
吉原遊郭に入るには、上の浮世絵に描かれている「日本堤」から行くほかありませんでした。
そこで道を歩く男たちの目印となっていたのが、「見返り柳」です。
画像出典:東京都立図書館(加筆)
「見返り」の名は、吉原で遊んで帰る男が名残惜しくて、よくこの木のあたりで後ろを振り返ったことから付けられたそうです。
この見返り柳を南に曲がると、目の前に「衣紋坂」が現れます。
これは、S字カーブの下り坂で、日本堤から吉原の中が見えないよう道が曲がりくねっており、現在の道路にも下の写真のように当時の名残が残っています。

この衣紋坂を下って行くと、正面に現れるのが吉原唯一の出入り口である「大門(おおもん)」です。
画像出典:ColBase
大門の中に広がる吉原遊郭の大きさは東京ドーム2個分以上あり、碁盤の目のようにきれいに街並みが整備されていました。
画像出典:「大吉原展 カタログ」東京芸術大学大学美術館・東京新聞,2024,p.109
まず、大門から真っ直ぐに伸びているのが、「仲之町」です。
この通りは、いわば吉原のメインストリートで、両サイドには「引手茶屋」という店が並んでいました。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(加筆)
この引手茶屋には、客と妓楼を引き合わせる役割があります。
花魁のような上位の遊女と遊びたい客は、吉原に入ったら茶屋に寄って妓楼に連絡してもらい、宴会をしながら迎えが来るのを待ちました。
仲之町を真っ直ぐ進んで突き当たりにあったのが、「水道尻」です。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
水道尻には、火除けの神様として知られる「秋葉権現」が祀られた、銅製の灯籠が設置されていました。
さて、メインストリートの仲之町には、「江戸町一丁目・二丁目」「京町一丁目・二丁目」「角町」といった通りが垂直に交わります。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(加筆)
これらの通りには、大小さまざまな妓楼が並んでいました。
妓楼には「張見世(はりみせ)」という、通りから格子越しに遊女の顔を見られる部屋が作られています。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
吉原を訪ねた男客たちは格子越しに遊女を見定め、反対に遊女たちは中から吸いかけのキセルを差し出し、客を誘いました。
それらの通りと少し毛色が違うのが、江戸町一丁目と京町一丁目の間にあった「揚屋町」です。
そこには、吉原の中で働く商人・職人・芸者などが住んでいました。
また、遊郭の端には「羅生門河岸」と「浄念河岸」という通りがあり、ここに並んでいたのは、下級の遊女屋である「切見世」です。
画像出典:東京都立図書館(加筆)
特に羅生門河岸は「蹴転(けころ)」とも呼ばれ、吉原の中でも治安の悪い場所として知られていました。
以上で紹介した遊郭の周りは高い塀で囲われ、その外側には「お歯黒どぶ」というお堀が張り巡らされていました。
今でも吉原遊郭のあった場所の周りは、下の写真のように一段低くなっており、お堀があったことがわかります。

この「お歯黒どぶ」という名称の由来は、そこに生活排水を流していたこともあって、いつも水が黒く濁っていたことだそうです。
塀や堀で周りを囲い込み、遊女たちが逃げられないようにしていたところに、吉原の暗い歴史が垣間見えます。
吉原にあった妓楼の種類

妓楼とは、遊女たちのいる店のことを指します。
吉原の妓楼には、大きく分けて以下の4つのランクがありました。
- 大見世(総籬)
- 中見世(半籬)
- 小見世(総半籬)
- 切見世
なかでも一番ランクが高いのが、「大見世」です。
この大見世に所属する遊女とは、引手茶屋を介さないと会えませんでした。
続いて、店の大きさによって「中見世」と「小見世」に分けられます。
大見世・中見世・小見世の3つの違いは、店の規模以外にも、張見世の格子の形状に表れました。
画像出典:「大吉原展 カタログ」東京芸術大学大学美術館・東京新聞,2024,p.133
上のイラストのように、大見世は全面が格子になっているのに対し、中見世は1/4ほど隙間が空いており、小見世では下半分しか格子がありません。
また、一番下のランクの「切見世」は、羅生門河岸や浄念河岸に並んでいた、下図のような狭い店を指します。
画像出典:「大吉原展 カタログ」東京芸術大学大学美術館・東京新聞,2024,p.134
切見世では、客が入ると線香に火をつけて時間を計り、燃え尽きた線香の本数に応じて、料金を請求するシステムになっていました。
妓楼の内部構造

「大見世」と呼ばれる妓楼は、たいてい2階建てでした。
まず、1階部分は妓楼で働いているスタッフのためのスペースで、台所や風呂、休憩場所などがありました。
店の旦那と女将は、1階の「内証」と呼ばれる座敷で、スタッフの働きぶりを監視していたそうです。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(加筆)
また、昼間に行燈(あんどん)を入れておく「行燈部屋」も1階にあり、代金の払えなかった客をここに閉じ込めることもありました。
さて、妓楼の暖簾をくぐった客は、すぐに2階へと案内されます。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(加筆)
2階には、宴会を開く「座敷」や遊女と二人きりで会う「個室」など、大小さまざまな部屋があります。
花魁などの上位の遊女は、自分の個室を持っており、座敷も専用のものが与えられていました。
一方で、個室を持たない遊女は、「廻し部屋」という大部屋に屏風を立てて周りから見えないようにして、客の相手をしたそうです。
なお、2階の階段近くには、よく「遣手部屋」が置かれます。
ここには「遣手」という妓楼を取り仕切るスタッフがいて、客の様子を見ながら、遊女と店の者に指示を出しました。
吉原遊郭での粋な遊び方
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
新吉原に遊郭が移転した1657年から、50年ほどの時間をかけて、段々と「遊び方のしきたり」が形成されます。
そこでは、上位の遊女と遊びたい客は「揚屋」という店に間を取り持ってもらう文化が生まれました。
しかし、18世紀(1700年代)に入ると、揚屋が姿を消し始めます。
揚屋に代わり、客と妓楼とつなぐ役割を担うようになったのが「引手茶屋」でした。
以上を踏まえ、ここでは江戸の中後期から見られた「引手茶屋を介して、花魁と粋に遊ぶ方法」を順を追ってお伝えします。
- 事前に予約する
- 舟で吉原に向かう
- 引手茶屋で宴会をあげる
- 妓楼に案内される
- 花魁との初会を迎える
- 裏を返す
- 馴染みになる
- 紋日に会いにいく
ステップ1. 事前に予約する
花魁のような上位の遊女と遊びたい場合には、当日の「飛び込み」ではいけません。前々からの予約が必須でした。
予約をしたら、男たちは当日に向けて身だしなみを整えます。
彼らは、床屋に行って清潔感のある髪型にしてもらい、着物や小物も小洒落たものを用意しました。
画像出典:「お江戸ファッション図鑑」撫子凛,マール社,2021,p.8
ステップ2. 舟で吉原に向かう
画像出典:ウィキペディア「名所江戸百景」
粋な吉原への行き方は、「舟」を使うことです。
まずは柳橋から猪牙舟に乗って、隅田川を遡ります。
そして、山谷堀あたりで降りて、日本堤を歩いて吉原へと向かいました。
金のある男は、吉原に行く際に幇間(太鼓持ち)を連れていきます。

この幇間に財布を預けて、自身は鷹揚に振る舞っているのが粋とされました。
ステップ3. 引手茶屋で宴会をあげる
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(加筆)
大門をくぐって吉原の中に入ったら、すぐに妓楼へ向かうのではなく、まずは「引手茶屋」に寄ります。
男客はここで芸者を呼んで宴会をあげながら、花魁が迎えに来てくれるのをゆるりと待ちました。
呼び出された花魁は茶屋まで、禿(かむろ)や新造、店の者を大勢引き連れてやってきます。これが有名な「花魁道中」です。
花魁は丈高の下駄を履き、上の動画に見られるような「外八文字」という独特な歩き方で、ゆっくりと迎えにきました。
ステップ4. 妓楼に案内される

花魁たちに連れられて、妓楼までやって来たら、すぐに階段で2階に上がります。
そして、最初に案内されるのは「引付座敷」という部屋です。
ステップ5. 花魁との初会を迎える
花魁と初めて会うことを、「初会」と言います。
初会の客は、引付座敷に案内されると、「上座」ではなく「下座」に座らされます。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
上の絵では、客が下座側に座り、上座に花魁が現れるのをソワソワしながら待っている様子が描かれています。
この初会では、花魁は客の近くに来てくれません。
花魁は離れたところから、客の身なりや振る舞いをそれとなく観察しており、客はそこで気に入ってもらえなければフラれてしまいます。
このため、客は最大限にお洒落をして吉原にやってきて、店の者に祝儀を配るなど、気前よく金を使いました。
ただし、金を無闇に浪費するのも「下品」と見なされ、花魁から嫌われます。
花魁に気に入られたい客には、良い塩梅で「粋」に振る舞い、上品に遊ぶことが求められました。
なお、以上のような吉原でのマナーについては、『吉原大全』という本にまとめられており、吉原で遊びたい人は事前にこれを読んで、独自のしきたりを学んだそうです。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
ステップ6. 裏を返す
初会では、花魁と言葉をかわすこともなく、帰路に着くことになります。
そして後日、もう一度同じ花魁に会いに行くことを「裏を返す」といいます。
そこでは、座敷で花魁が近くに寄ってきて話をしてくれるものの、同じ床に入ることはありません。
ここで裏を返したときに、「裏祝儀」と呼ばれる祝儀を店の者に配ると、店から返礼の品が送られました。
ステップ7. 馴染みになる

裏を返した後、三度目の登楼で店の者に祝儀を配ると、ようやく「馴染み」として認められます。
こうして馴染みになると、「名前入りの箸袋」を用意してもらえました。
また、馴染みになったことで、やっと花魁と床を一緒にすることを許されます。
ここで初めて枕を交わしたときには、「床花」という祝儀をこっそり置いて帰るのが粋とされました。
なお、馴染みになった後に、ほかの妓楼へ足を踏み入れることは「浮気」と見なされます。
浮気が発覚した場合、店の禿(かむろ)や新造が大門のところで待ち伏せをして、馴染みの妓楼に連行され、「お仕置き」を受けました。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(加筆)
上の絵のように、自慢の髷を切り落とされ、情けない赤色の着物を着て、周りに笑われながら土下座をした男もいたそうです。
ステップ8. 紋日に会いにいく
馴染みになった客が“男”を見せる場面が、「紋日」です。
紋日とは、吉原の「祝日」のようなもので、毎月1・15・17・28日と、正月・お盆・節句などの日が紋日として設定されました。
この紋日には、遊女と遊ぶための揚代が、通常の2倍になります。
そして、紋日に客を取れなかった遊女は、揚代を自腹で負担しなければなりません。
さらに、紋日には新しい衣装を披露したり、店の者に祝儀を払ったりする必要があるため、遊女にとってはとにかく出費がかさむ日でした。
そこで紋日が近づくと、遊女は馴染みの客に手紙を書いて無心をして、紋日に会いにきてくれるよう誘ったそうです。
ちなみに、落語の「品川心中」では、この紋日に「お染」という花魁が客を集めるのに苦労するところから話が始まります。
紋日は、客にとっては単純に料金が倍になる日です。
しかし、いくら出費が多くなろうとも、馴染みの花魁を困らせないために、平気な顔をして会いに行くのが粋な客でした。
金のある上客は、あえて紋日に「仕舞」をします。
仕舞とは、遊女の一日を買い切ること。遊女側としては紋日に仕舞をしてもらえれば、揚代の地腹が一切なくなるので、大変ありがたがられました。
また、妓楼にいるすべての遊女を仕舞にしてしまうことを「総仕舞」と呼びます。
これには、とてつもない費用がかかるため、一部の富裕層にしかできない芸当でした。
「紀文」のあだ名で知られる紀伊國屋文左衛門という大金持ちは、吉原中の妓楼を総仕舞にしたことがあります。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
しかも、それは一度きりではなく、二度も三度も行ったそうです。
その桁外れの行動に、「両方の手で大門を紀文しめ」という川柳まで残っています。
吉原遊郭で働く人々

吉原遊郭の中では、下記のような人々が働いていました。
- 遊女
- 楼主
- 遣手
- 若い衆
- 芸者
以下では、これらの職業について詳しく見ていきます。
遊女

遊郭における主役は、もちろん「遊女」です。
元吉原から新吉原に移ってきた当初、遊女には下記のようなランクがありました。
- 太夫
- 格子
- 散茶
遊女の最高位は「太夫」と呼ばれ、当時は吉原の中に2,000〜3,000人の遊女がいた中、太夫の人数は十数人しかいなかったそうです。
その太夫に続いて、「格子」→「散茶」と順にランクが低くなります。
遊女は気に入らない客をフることができましたが、散茶はそれが叶いませんでした。
そもそも「散茶」というのは、お茶っ葉を粉状にしたもので、それにお湯を入れるだけで簡単にお茶を飲めるという品です。
このため、急須に茶葉を入れたときのように「振らない」ことから、「男をフらない遊女」に「散茶」の言葉が当てられたのが由来とされます。
さて、時代が経るにつれて「太夫」と「格子」の名前がなくなり、「散茶」が繰り上がりで、遊女の最高位を指す言葉になりました。
やがて散茶もいくつかのランクに分かれ、最上ランクは「呼び出し昼三」と呼ばれるようになります。

「呼び出し昼三」という言葉のうち、まず「呼び出し」とは、引手茶屋から客に呼び出されることを指します。
通常、遊女は妓楼の張見世に出て、外から客に選ばれることで相手が決まりますが、最上級の花魁は張見世には出ず、引手茶屋からの呼び出しのみで客を取りました。
続いて「昼三」は、「昼見世(妓楼の昼営業)」の揚代(遊び代)が「三分」かかることを指します。
三分は現在の金銭感覚では、7〜8万円ほどです。
ちなみに、このような花魁と夜見世で遊ぶには「一両一分」かかり、今の価値でゆうに10万円を超えました。
江戸時代のお金や物価について詳しく知りたい方は、下記の記事をご参照ください。
前述の揚代に加えて、店の者への祝儀で100万円以上配る必要があったため、「呼び出し昼三」は、庶民からは到底手の届かない高嶺の花でした。
「呼び出し昼三」より下のランクの遊女は、「昼三」→「附廻」→「座敷持」→「部屋持」と続きます。
このうち、「花魁」と呼ばれるのは「呼び出し昼三・昼三・附廻」までとされますが、花魁の定義は今でも諸説あります。
花魁まで出世する道のり

「花魁」と呼ばれるまでに上り詰められる遊女は、ほんの一握りでした。
まず、女性が吉原の妓楼に足を踏み入れるとき、店から女性の家族へ多額の金が支払われます。
これは明らかに「人身売買」ですが、吉原の妓楼は幕府へ上納金を納めることで、黙認されていました。
女性は、ここで妓楼から借金を背負わされ、それを返すために遊女として働くことを強いられます。
幼い年齢で妓楼に入った少女は「禿(かむろ)」として、花魁の身の回りの世話をしました。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(加筆)
禿はここで読み書きに加えて、下記のような教養や芸事を身に付けていきます。
- 三味線
- 琴
- 日本舞踊
- 和歌
- 漢詩
- 茶道
- 華道
- 囲碁
- 将棋 など
13~14歳になり、「見込みあり」と判断された禿は「振袖新造」として、お披露目されることになります。
このお披露目は「新造出し」と言われ、費用はすべて先輩役の花魁が負担しました。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(加筆)
一方で「見込みなし」と判断された禿や、年を重ねてから吉原にやってきた女性は、「留袖新造」になります。
振袖新造は花魁になる修行に専念するため、まだ客は取りませんが、留袖新造は花魁のサポートとして店に出て、客を取ることもありました。
振袖新造と留袖新造は、16~17歳で遊女として正式にデビューします。
このお披露目の儀式を「突き出し」といい、これを終えた留袖新造は、妓楼の張見世に出て、客に選ばれるのを待つことになります。
一方で、振袖新造のうちで「見込みあり」と判断された者は、張見世には出ずに、引手茶屋へ挨拶回りに行きました。
そして、その後は引手茶屋の斡旋によって、客が決められます。
このように、新造が茶屋へ挨拶回りをしてデビューすることを「道中突き出し」と呼びました。
最上ランクの花魁である「呼び出し昼三」になれるのは、ほとんどが「道中突き出し」でデビューした遊女だったそうです。

遊女としてデビューしてからは、妓楼への借金を返し終える26〜27歳まで働きます。
この借金完済までの期間を「年季」といい、年季が明ければ、晴れて自由の身になれました。
しかし、年季が明けても、事情があって親元には戻れず、行くあてもない場合には、妓楼に残って「番頭新造」として働くことがあります。
この番頭新造は、遊女たちの面倒を見る役で、自分の経験に基づいて助言などをしました。
さらに、この番頭新造から出世して、妓楼の中を取り仕切る「遣手」になる者もいたようです。
なお、年季が明ける前に、馴染みの客に身請けされるケースもありました。
花魁を身請けするには、1,000両ほど必要だとされ、これは現在の価値では数千万〜億単位の金です。
このため、身請けされる遊女は、ほんの一握りだったと考えられます。
楼主

「楼主」とは、妓楼の主人のことです。
別名「忘八」とも呼ばれ、「儒教における、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の8つの徳を忘れた者」というのが言葉の由来になっています。
この楼主は妓楼の1階にある「内証」と呼ばれる座敷に座って、店の者の働きぶりを監視しました。
遣手(やりて)

「遣手」は、妓楼内の統括マネージャーのような役割を担っていました。
営業中は2階の部屋から遊女に指示を出して店を回し、営業時間外には遊女たちの教育係や相談役になります。
若い衆

妓楼で働く男のことを「若い衆」「若者」「妓夫(ぎゅう)」と呼びます。
彼らは、外の通りで客引きをしたり、店の中を案内したり、食事や酒を運んだりと、雑務のすべてを引き受けていました。
芸者

妓楼には、「見番所」というところから、芸者たちが派遣されます。
派遣された女芸者は座敷で三味線や踊りを披露し、男芸者は太鼓持ちとして客のご機嫌をとりました。
吉原遊郭での遊女の一日
画像出典:「大吉原展 カタログ」東京芸術大学大学美術館・東京新聞,2024,p.191
吉原遊郭で働く遊女たちは、上記のようなスケジュールで一日を過ごしていました。
ここでは、その様子を詳しく見ていきます。
なお、江戸時代の時刻は「不定時法」が採用されており、季節によって昼夜の時間の長さが異なりました。
このため、記載した時刻はあくまで「目安」としてお考えください。
江戸時代の時刻については、下記の記事で詳しくお伝えしています。
10:00 起床
遊女たちは、朝の10時頃に起床していました。
起きたら、まずは朝食と入浴を済まし、昼見世(昼の営業)に向けて、身支度を整えます。
14:00 昼見世

14時頃から昼見世が始まりますが、ほとんどの場合、客足はまばらです。
このため遊女たちは、馴染みの客に手紙を書いたり、同僚と遊んだりして、のんびりと過ごしました。
16:00 客の出迎え

16時頃に昼見世が終わったら、早めの夕食を取ります。
そして、引手茶屋に呼び出されたら、客を迎えに行きました。
18:00 夜見世

夜見世(夜の営業)は18時から始まり、客を妓楼の座敷でもてなします。
その後は、頃合いを見て客を個室へと案内し、二人きりの時間を過ごしました。
22:00 お引け
22時頃になると、吉原唯一の出入り口である大門が閉まります。
ただし、一切の出入りができなくなるというわけではなく、門のわきを通ることができました。
この大門が閉まる時間帯を、「お引け」と呼びます。
24:00 中引け
24時頃には夜見世の営業が終了し、この時間帯を「中引け」と呼びます。
この時点で客の付かなかった遊女は、ここで就寝しました。
ちなみに、遊女に客が付かなかったことを「お茶を挽く」といいます。
落語の「お直し」は、年を重ねてお茶を挽くようになった花魁を若い衆が慰めたことがきっかけで、二人がくっつくところから始まります。
2:00 大引け
午前2時頃になると妓楼の戸を閉めて、それ以降は新規の客を取りませんでした。この時間帯を「大引け」と呼びます。
大引けになると、店の者が拍子木を鳴らして妓楼の中を回り、その音を聞いた遊女は、2階の部屋から1階まで降りて、自分の名前の札を掛け替えます。
店の者はその名札を見て、遊女がきちんと働いていることをチェックしました。
4:00 お迎え

午前4時頃に、引手茶屋からの使いが、自分たちが送った客を迎えに来ます。
遊女はそこで客よりも早く起きて化粧を直すなどして、朝の準備を始めました。
6:00 後朝(きぬぎぬ)の別れ

午前6時頃に、大門が開きます。
この時間帯に、遊女は客と引手茶屋へ向かい、迎え酒や朝粥を一緒に取りました。その後、大門まで見送りをします。
この客との別れのことを、「後朝の別れ」と呼びました。
「一夜をともにした男女が翌朝に別れること」を意味する、平安時代からある用語。
客を見送って妓楼に帰ってきた遊女は、10時頃まで眠りにつきました。
吉原遊郭の年中行事
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
吉原では、客を楽しませるためのイベントが年中開かれていました。
ここでは、その代表的なものとして、以下の6つを紹介します。
- 正月
- 花見
- 玉菊灯籠
- 八朔(はっさく)
- 俄(にわか)
- 酉の市
それぞれについて、詳しく見ていきましょう。
1月:正月
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
元旦になると、楼主から遊女にお揃いの新しい衣装が贈られました。
この着物のことを、「お仕着せ」といいます。
1月2日に遊女たちはお仕着せを身につけ、世話になっている茶屋などに挨拶をして回りました。
その日、吉原の中では大黒舞の踊りや大神楽の獅子舞なども行われ、大変賑やかだったそうです。
さらに、1月3日には、それぞれの遊女が豪華な衣装を着て、花魁道中をしました。
3月:花見
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
3月に入る少し前から、吉原のメインストリート「仲之町」に桜が植えられます。
その費用は、妓楼・茶屋・見番(芸者の取り次ぎを行う店)が分担して出しました。
総額は150両とも言われ、今の金銭価値では1,000万円をゆうに超えます。
この時期、吉原は桜の名所となり、男性客だけではなく女性や子どもも花見にやってきたそうです。
6〜7月:玉菊灯籠
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
6月末日〜7月末日までの1ヵ月間は、「玉菊灯籠」が茶屋の軒先に吊るされました。
この行事は、みんなから愛された「玉菊」という花魁が、若くして亡くなったのを偲んで始められたものです。
灯籠は著名な画家や書家によって制作されたため、この時期は吉原の街全体が「美術館」のような雰囲気になったといいます。
8月:八朔(はっさく)
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
8月1日のことを「八朔」といい、この日は遊女が白い衣装を着て客を迎えました。
この行事の由来には、諸説あります。
よく言われるのは、「徳川家康が1590年の8月1日に江戸に入り、それ以降、大名や家臣が白帷子姿で城に来て、みんなで祝うのが通例になった」のを真似たという説です。
しかし、「家康が江戸に入ったのは8月1日ではない」という説もあるため、今となっては明確な由来はわからなくなっています。
8月:俄(にわか)
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
八朔と同時に、吉原では「俄」という祭りも始まります。
この俄は、8月1日から「晴天の日」の30日間続きました。雨の日は中止されたため、雨が多い年には10月まで行われることもあったそうです。
俄になると、吉原の通りに2階建ての「踊り屋台」が登場しました。この屋台の1階では音楽が奏でられ、2階で芸者が踊ります。
こうして、芸者たちが吉原中を移動しながら、祭りを盛り上げました。
11月:酉の市

11月の「酉の日」には、吉原の近くにある鷲(おおとり)神社で「酉の市」が開かれました。
日付に順番に「十二支」を当てたとき、「酉」に該当する日のこと。
普段の吉原の出入り口は「大門」のみですが、酉の市の日だけは、鷲神社側にある非常扉を開けて、参詣客を呼び込みました。
下の浮世絵では、白い猫が妓楼の窓から酉の市の賑わいを眺めています。
画像出典:ウィキペディア「名所江戸百景」
以上が、吉原の代表的な年中行事です。
このほかにも、桃の節句・端午の節句・七夕・月見など、一年にわたって数々のイベントが催されていました。
吉原遊郭が舞台の落語4選

落語には、吉原遊郭が舞台になっているネタが多数あり、これを「廓話(くるわばなし)」と呼びます。
ここでは、その廓話の中から厳選して、以下の4つを紹介します。
- 明烏
- 紺屋高尾
- 五人廻し
- お直し
それぞれの簡単なあらすじを見ていきましょう。
落語1. 明烏

「明烏」の主人公は、とある大きな商家の若旦那です。
このネタでは、ウブで真面目な彼が仲間に騙されて、吉原に連れてこられてしまいます。
話の中で吉原への道中や遊び方が詳しく解説され、いわば「初心者のための吉原案内」のような落語になっています。
落語2. 紺屋高尾

タイトルにある「紺屋」とは、染め物屋のことです。
このネタは、紺屋の職人「久蔵」が仲間と一緒に吉原に行き、花魁の「高尾」に一目惚れするところから始まります。
久蔵の一途さと高尾の心意気に、ラストシーンでは思わず涙がこぼれます。
落語3. 五人廻し

遊女が一夜に複数の客の相手をすることを、「廻し」といいます。
廻しをされると、客側は遊女が自分の部屋に来るのを、今か今かと待ち受けることになります。
このネタは、落語界きっての小悪魔である「喜瀬川花魁」に、5人の男たちが振り回される話です。
落語4. お直し

「お直し」の舞台は、吉原の「羅生門河岸」。
通称「蹴転(けころ)」とも呼ばれるこの場所は、吉原の中でも治安が悪いことで知られていました。
このネタでは、その羅生門河岸でとある夫婦が店を開くのですが……。
明治以降の吉原遊郭
画像出典:ウィキペディア「吉原遊廓」
この項では、江戸時代が幕を閉じた後の「明治以降」の吉原についてお伝えします。
明治
鎖国が解かれて明治期に入ると、吉原の営業に関して、西洋諸国から「遊女は人身売買である」との批判を受けます。
これを受けて政府は、1872年に「芸娼妓解放令」を出しました。
ただし、これには吉原の営業を完全に停止させる効力はなく、妓楼は「貸座敷」、遊女は「娼妓」に名前を変えて、依然として営業は続けられます。
それでも、芸娼妓解放令はまったく意味のないものではなく、娼妓の最低年齢の引き上げや年季の短縮が図られました。
明治期には吉原の文化も少しずつ変わり、貸座敷は次第に西洋風の建物になって、大門は鉄製に。また、派手な花魁道中は、この頃から姿を消します。
そして、1911年には映画『吉原炎上』の題材にもなった大火事が発生し、吉原全体が燃えてしまいました。
大正
吉原の大火の後、貸座敷は和洋折衷の建築で再建されます。
そして、明治期になくなった花魁道中も、大正期に復活を果たしました。
しかし、1923年に関東大震災が発生し、吉原も街全体が壊滅状態になります。
ここから吉原は再び復興しますが、象徴であった大門は撤去され、江戸の吉原の風情はなくなりました。
昭和
昭和に入り、日本は戦争へと進んでいきます。1945年には東京大空襲を受け、吉原も大きな被害を受けました。
戦争が終結すると、GHQから「公娼廃止令」が出されます。
これを受けて、吉原では「遊女による自由営業」という建前が取られるようになり、貸座敷は「カフェー」、娼妓は「女給」に名称を変えて営業が続けられました。
そして、こういった営業が半ば認められていた地域は、警察が地図上に赤い線で囲っていたことから「赤線」と呼ばれるようになります。
この赤線も1956年の「売春防止法」で廃止され、これをもって江戸時代から続いた「遊郭としての吉原」の灯は消えました。
吉原や遊郭に関する用語11選

ここでは、吉原や遊郭に関する用語を紹介します。
用語1. 廓(くるわ)言葉
「廓言葉」は、遊女が使った遊郭独自の言葉遣いで、有名なものとして、一人称の「わちき」や、語尾に付ける「ありんす」などがあります。
遊郭には日本各地から女性が集まったため、廓言葉を使うことで方言を隠すとともに、「吉原は別世だ」という演出の効果もありました。
用語2. 北
吉原遊郭は、江戸の中心地から見て北の方に位置していたことから、「北」「北国」「北里」などと呼ばれました。
ちなみに、当時遊郭のあった品川は、吉原の「北」に対して「南」と呼ばれます。
その品川の妓楼が舞台となった有名な落語に、「居残り佐平次」があります。
用語3. 傾城(けいせい)
遊女を「傾城」や「傾国」と呼ぶことがあります。
これは、大名が遊女に夢中になり過ぎると、城や国が傾くことからきています。
「傾城傾国」という言葉は、もともとは中国の王が美女にうつつを抜かして、国政を疎かにした故事が由来です。
用語4. 大尽
「大尽」とは、妓楼で金払いの良い、裕福な客のことを指します。
用語5. 間夫
「間夫」とは、遊女が“仕事”ではなく、“心から”好きな男性客のことです。
「冷やかし千人、客百人、色は十人、間夫一人」という言葉がある一方、吉原では「間夫は十人、恋一人」という格言があります。
用語6. 揚代
「揚代」とは、遊女と遊ぶ際の料金のことです。
最高位の花魁と遊んだ場合、揚代は今の価値で10万円以上になり、これに加えて花魁や店の者への祝儀で100万以上かかりました。
用語7. 足抜け
「足抜け」とは、遊女が妓楼から脱走することを指します。
辛い境遇に耐えきれず、妓楼から逃げ出そうとした遊女は大勢いたそうです。
また、楼主に反感を抱いた遊女は、抗議として店に放火することもありました。
このため、吉原はたびたび火災に見舞われています。
用語8. 浄閑寺
「浄閑寺」は、吉原遊郭の近くにある寺です。
病気などで亡くなった遊女の多くは、この寺に埋葬されましたが、満足な葬儀は行われなかったといいます。
用語9. 吉原細見
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
「吉原細見」は、吉原の案内本です。
元々は鱗形屋孫兵衛が出版していたものを、蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)が引き継ぎました。
蔦屋重三郎は、吉原の大門のすぐ近くの衣紋坂に店を構えて、この吉原細見を売っていました。
それぞれの妓楼に所属している遊女や、遊ぶための揚代が詳しく記載されていたため、吉原のバイブルとして広く読まれたそうです。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
用語10. 四郎兵衛会所(しろべえかいしょ)
「四郎兵衛会所」は大門の近くに置かれた小屋で、ここでは遊女の出入りを厳しく取り締まりました。
ちなみに現在は、大門があった場所の近くに交番が配置されています。
用語11. 高尾
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
「高尾」は、三浦屋という妓楼に在籍した花魁の名跡で、7代〜11代続いたとも言われます。
最も有名なのは2代目で、仙台藩の大名に身請けされました。
この2代目の高尾は、落語の「反魂香」にも登場します。
吉原をもっと知りたい方へオススメの作品

最後に、吉原遊郭についてより詳しく知りたい方へ向けて、おすすめの映画や本を紹介します。
オススメ1. 吉原炎上
『吉原炎上』は、1987年に公開された五社英雄監督の映画です。
明治期の吉原が舞台となっていて、この映画を観れば当時の吉原の様子がわかります。
ただし、遊女たちが置かれていた悲惨な状況も生々しく描かれており、見ていて苦しくなる場面もあります。
オススメ2. さくらん
『さくらん』は、安野モヨコさんの漫画が原作の映画です。
監督は蜷川実花さん、主演は土屋アンナさん、音楽を椎名林檎さんが担当しました。
舞台は江戸時代の吉原で、「吉原の中では桜が咲かない」「大門に金魚の水槽がある」など、史実とは異なる演出もあるものの、妓楼の様子などから当時の吉原の雰囲気を感じられます。
オススメ3. たけくらべ
『たけくらべ』は、明治期に樋口一葉が発表した短編小説で、吉原周辺に住む少年・少女の成長が描かれています。
樋口一葉自身も吉原の近くに住んでいたことがあり、そのときの経験が作品に活かされているようです。
なお、本作は古めの文体で書かれているので、読みづらく感じた場合には、下記の「現代語訳版」をおすすめします。
オススメ4. 遊郭と日本人
『遊郭と日本人』は、江戸文化を専門とし、法政大学の元総長でもある田中優子先生の著作です。
この本では、吉原や遊女について初心者にもわかりやすく解説されており、本記事を書く際も大いに参考にしました。
ちなみに、記事を執筆する上では、以下の2冊も参考にしています。

- 「大吉原展 カタログ」東京芸術大学大学美術館・東京新聞(編集)
- 「吉原細見 歴史と文化探究編」吉原商店会(企画・発行)
おわりに

『遊郭と日本人』という本の冒頭で、著者の田中優子先生は「遊郭は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」と書いています。
吉原では、女性の人身売買が公然と行われてきた歴史があります。
もちろん、これはあってはならないことであり、今後も絶対に行われてはいけません。
一方で、吉原には多額の金が集まり、それを資金に独自の文化が形成されていました。
その様子は浮世絵や落語として残されており、現代の漫画や映画などの作品にも、吉原の文化の影響は多く見られます。
このように、吉原は二面性を持つ場所だといえます。
現代を生きる私たちは、吉原の「負の側面」を戒めとして厳しく受け止めながらも、そこで形成された文化まで「なかったこと」にせず、後世に残していくことが大事だと、記事を書いて感じました。
この一冊で「落語の概要」「代表的なネタ」「江戸の文化」「伝説の落語家」のすべてが知れます。
落語に少しでも興味をお持ちの方は、ぜひ読んでみてください!
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