太宰治

太宰年表|太宰治の人生を年表形式で紹介

太宰治って、どんな生涯を送ってきたの?

ふむ。そしたら、太宰の人生を年表で見ていこうか。

本記事では、太宰治の人生を年表に沿って紹介します。

なお、文中の年齢は太宰が生きた時代の慣例にならって、「数え年」で表示しました。

現在、一般的となっている「満年齢」に変換したい場合は、記載の年齢から1歳引いて考えてください。

数え年とは?

生まれた時点で「1歳」とし、以降、正月を迎えるたびに1歳ずつ加える、年齢の数え方。

生誕から少年時代

▼2歳の頃の太宰

2歳の頃の太宰治
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.9

青森の裕福な家に生まれた太宰。彼の家庭環境は、普通とはちょっと違うものでした。

太宰の幼少時代を、年表で見ていきましょう。

明治42年(1909年|1歳)

  • 6月19日:青森県北津軽郡金木村で、津島修治(太宰治の本名)が誕生。父 源右衛門、母 タ子(たね)の第10子6男だった。生母が病弱だったため、乳母が付けられた。
1909年頃の日本
  • 日清戦争(1894年)・日露戦争(1904年)に勝利し、国力を上げつつあった。
  • 満州進出が本格化する中、伊藤博文がハルビンで暗殺された。

明治43年(1910年|2歳)

  • 乳母が再婚で津島家を去ったため、以後は叔母のキエに育てられる。
1910年の日本
  • 天皇の暗殺を計画したとして、社会主義者が弾圧される「大逆事件」が起こる。以降、社会主義者たちは「冬の時代」へ。
  • 韓国併合を行い、韓国を植民地化した。

明治45年・大正元年(1912年|4歳)

  • 5月3日:15歳のタケが女中として津島家に雇われ、修治の子守りを任される。
  • 5月17日:父の源右衛門が衆議院議員選挙に当選。以後、父と母は、留守がちになる。
1912年の日本
  • 明治天皇の崩御にともない、大正天皇が即位した。
1914年の日本
  • 第1次世界大戦が始まり、日英同盟を理由に参戦。中国内のドイツの権益地の一部を占領した。
  • 夏目漱石が『こころ』を発表した。
1915年の日本
  • 芥川龍之介が『羅生門』を発表した。

大正5年(1916年|8歳)

  • 1月18日:叔母のキエ一家が分家となり、五所川原へ引っ越し。タケはこの家の女中となるため、後に津島家を去る。修治も叔母たちについていき、小学校入学までの2ヵ月間を五所川原で過ごす。
  • 4月:金木に戻ってきて、金木第一尋常小学校へ入学
1917年の出来事
  • ロシア革命が起こり、世界初の社会主義国家が誕生。のちにソヴィエト連邦となる。
1918年の日本
  • 社会主義の影響を恐れたイギリスやフランスがロシアへ干渉。日本も協力を促され、シベリア出兵を行った。
  • 第1次世界大戦が終結した。
1920年の日本
  • 国際紛争を解決するための組織として国際連盟が誕生。日本は常任理事国となった。
  • ロシア革命の影響もあって、国内の社会主義者たちが活動を再開。日本社会主義同盟が結成されるも、翌年には禁止となった。

大正11年(1922年|14歳)

  • 3月23日:金木第一尋常小学校を主席で卒業。
  • 4月1日:学力補充のため、明治高等小学校に入学

大正12年(1923年|15歳)

  • 3月4日:父 源右衛門が亡くなる(享年52歳)。
  • 3月4日:明治高等小学校の第1学年を修了。
  • 4月1日:青森県立青森中学校に入学
  • 中学の夏休みに、井伏鱒二の『幽閉(のちに『山椒魚』へ改稿される作品)』を読み、感動する。
1923年の日本
  • 関東大震災が起こり、甚大な被害が出た。

▼ここまで紹介した太宰の幼少期については、下記の記事でもお伝えしています。

▼上の記事と同じ内容は、動画でもご確認いただけます。

https://youtu.be/me04a56EhZk

中学時代

大正13年(1924年|16歳)

  • この頃、芥川龍之介や菊地寛などの小説に親しむようになる。

大正14年(1925年|17歳)

  • 3月24日:青森中学校「校友会誌 第34号」で、最初の著作となる『最後の太閤』を津島修治の名で発表。
  • 10月上旬:同人誌「星座 第1号」に戯曲『虚勢』を辻魔羞児の名で発表。
  • 10月10日:宮越トキが小間使いとして、津島家に住み込み始める。修治は彼女に想いを寄せる。
  • 10月20日:青森中学校「校友会誌 第35号」で、『角力』を辻魔首氏の名で発表。
  • 11月6日:文学仲間に声をかけて、同人誌「蜃気楼」を創刊し、編集兼発行人となる。創刊号では『温泉』と『犠牲』を津島修治の名で発表。
  • 12月1日:「蜃気楼 11月12月合併号」で『地図』を津島修治の名で発表。
1925年の日本
  • 普通選挙法が成立し、満25歳以上の男性に選挙権が与えられた。
  • 共産主義思想の波及を防ぐ目的で、治安維持法が成立した。
  • 東京・大阪・名古屋でラジオ放送が始まった。

大正15年・昭和元年(1926年|18歳)

  • 1月23日:「蜃気楼 1月号」で『負けぎらひト敗北ト』を津島修治の名で発表。
  • 2月8日:「蜃気楼 2月号」で『侏儒楽』を辻魔首氏の名で、『私のシゴト』を津島修治の名でそれぞれ発表。
  • 4月23日:「蜃気楼 4月号」で『針医の圭樹』を辻島衆二の名で、『侏儒楽』をX・Y・Zの名で発表。
  • 5月21日:「蜃気楼 5月号」で『』を辻島衆二の名で、『侏儒楽』をX・Y・Zの名で発表。
  • 6月5日:「蜃気楼 6月号」で『傴僂』をX・Y・Zの名で、『将軍』を津島修治の名でそれぞれ発表。
  • 7月:「蜃気楼 7月号」で『哄笑に至る』を津島修治の名で発表。
  • 9月1日:兄の圭治の発案で、同人誌「青んぼ」を創刊。『口紅』と『埋め合せ』を辻島衆二の名で発表する。
  • 10月5日:「青んぼ 第1巻第2号」で、『再び埋め合せ』を辻島衆二の名で発表。「青んぼ」はこの号で廃刊となる。
  • 11月8日:「蜃気楼 10月号」で『モナコ小景』を津島修治の名で発表。
  • 秋ごろ:想いを寄せていた、小間使いの宮越トキに「一緒に家出して、東京で生活しよう」と持ちかける。恐ろしく感じたトキは、津島家を去る。
  • 12月20日:「蜃気楼 11月12月合併号」で『怪談』を津島修治の名で発表。
1926年の日本
  • 大正天皇が崩御し、昭和天相が即位した。
  • 川端康成が『伊豆の踊子』を発表した。

▼ここまで紹介した太宰の中学時代については、下記の記事でもお伝えしています。

▼上の記事と同じ内容は、動画でもご確認いただけます。

https://youtu.be/Z_5vSOXdozk

高校時代

昭和2年(1927年|19歳)

  • 2月15日:「蜃気楼 1月号」で『名君』を津嶋修治の名で発表。高校受験の準備のため、「蜃気楼」はこの号で廃刊に。
  • 3月7日:青森中学校第4学年を、4番目の成績で修了。(※旧制中学は5年制で、修治は飛び級で進学)
  • 4月18日:官立弘前高等学校の文科甲類に入学。市外に住む学生は寮に入ることになっていたが、「病弱のため」と偽り、親戚の家に下宿する。
  • 5月21日:青森市で開かれた芥川龍之介の講演を聴く。
  • 7月24日:芥川龍之介が35歳の若さで自殺。激しい衝撃を受けた修治は、この頃から学業を放棄し、私生活に変調が見られるようになる
  • 8月上旬:突然、義太夫を習い始める。服装にも凝り始める。
  • 10月上旬:この頃から、芸妓遊びを始める。

昭和3年(1928年|20歳)

  • 5月1日:個人編集の同人雑誌「細胞文藝」を創刊し、長編小説『無限奈落』の連載を辻島衆二の名で開始。
  • 7月1日:「細胞文藝 7月号」で、『股をくぐる』を辻島衆二の名で発表。
  • 7月中旬:手紙で、井伏鱒二に「細胞文藝」への寄稿を依頼したところ断られたため、上京してもう一度依頼しようとしたが会えず。しかし、帰郷後まもなく、井伏鱒二から『薬局室挿話』の原稿が届く。
  • 夏休み:金木の生家で過ごす。芸妓遊びをするなかで、紅子(本名:小山初代)と知り合い、親しい仲になる
  • 9月5日:「細胞文藝 9月号」で、『彼等と其のいとしき母』を辻島衆二の名で発表。細胞文藝は、この号をもって廃刊となる。
  • 10月:同人誌「猟騎兵」に参加する。
  • 12月1日:弘前高校の学校新聞雑誌部の委員に任命される。
  • 12月15日:弘前高校「校友会雑誌 第13号」で、『此の夫婦』を津島修治の名で発表。
1928年の日本
  • 普通選挙制による初の総選挙で、日本共産党が積極的に活動。政府によって共産党員が一斉検挙される三・一五事件が起こった。

昭和4年(1929年|21歳)

  • 2月19日:「弘高新聞 第5号」で、『鈴打』を小菅銀吉の名で発表。
  • 5月13日:「弘高新聞 第6号」で、『哀蚊』を小菅銀吉の名で発表。
  • 8月3日:「猟騎兵 第6号」で、『虎徹宵話』を小菅銀吉の名で発表。
  • 9月25日:「弘高新聞 第8号」で、『花火』を小菅銀吉の名で発表。
  • 11月頃:町の娘と催眠剤のカルモチンで心中を図り、未遂に終わったといわれる
  • 12月10日:下宿で大量のカルモチンを飲み、昏睡状態に陥る。『地主一代』という作品の連載1回分を書き上げた直後で、期末試験の前日の出来事だった。
  • 12月11日:午後になって意識を取り戻す。その後、母と大鰐温泉へ行き、静養をする。
1929年の日本
  • 世界恐慌が起こり、日本も不況に陥った。
  • 小林多喜二が『蟹工船』を発表した。

大学時代

昭和5年(1930年|22歳)

  • 1月1日:青森県文芸総合誌「座標 創刊号」で、長編『地主一代』の連載を大藤熊太の名で開始。
  • 1月7日:静養していた温泉地から、弘前市へ戻ってくる。
  • 3月15日:弘前高校を卒業。
  • 4月:東京帝国大学文学部フランス文学科へ入学。三男 圭治の住居にほど近い、下戸塚町の下宿に住む。高校の先輩に勧誘されて、左翼活動に参加し始める。
  • 5月中旬:井伏鱒二に師事するようになる
  • 7月1日:「座標 7月号」で、長編『学生群』の連載を大藤熊太の名で開始。
  • 夏休み明け:この頃から、ほとんど学校へ行かなくなり、左翼活動に没頭する
  • 10月1日:親しくしていた芸妓の小山初代が、修治の手引きによって上京してくる。
  • 11月上旬:長兄 文治が上京してきて、修治と会談。分家除籍を条件に初代との結婚を承諾してもらう。手続きのため、文治は初代を青森に連れ帰る。
  • 11月24日:小山家と結納を交わす
  • 11月下旬:銀座のカフェー「ホリウッド」の女給、田辺あつみ(本名:田部シメ子)と知り合う。
  • 11月28日:鎌倉の海岸で、あつみとカルモチンを飲んで心中を図り、翌日に苦しんでいるところを発見される。あつみは命を落とす。

昭和6年(1931年|23歳)

  • 1月27日:長兄 文治と会談し、生活費の支援の条件として、「左翼活動に関係しないこと」などを約束させられる。
  • 2月:小山初代が上京してきて、同棲を始める
  • 2月中旬:左翼活動の重要人物を家に匿う。
  • その後も修治は、左翼活動への協力を続ける。左翼活動への協力に目をつけられると、取り調べを受けるように。修治の家は、左翼活動のアジトと化したため、保全のために移転を重ねる。
1931年の日本
  • 中国に置かれていた「関東軍」が軍事行動を起こしたことで、満州事変が始まった。
  • ナショナリズムの高揚と国家からの弾圧によって、社会主義は次第に下火になった。

昭和7年(1932年|24歳)

  • 6月中旬:修治の左翼活動の取り締まりで、金木の生家にも刑事が訪問する。
  • 7月中旬:長兄 文治と青森警察署へ自首。以後は左翼活動から手を切る
  • 7月31日:療養を兼ねて、初代と静岡の家を間借りして、約1ヵ月滞在。『思い出』の執筆を始める。
  • 9月:芝区白金三光町で家を借り、同郷の飛島家と一緒に住む。この家で執筆活動に精を出す。
1932年の日本
  • 関東軍が満州の主要地を占領し、「満州国」の建国を宣言させた。
  • 不況や満州事変などを背景に、軍人や右翼による「国家改造運動」が活発化。犬飼首相が暗殺される「五・一五事件」が起こった。

新進作家時代

昭和8年(1933年|25歳)

  • 1月1日:青森県の地方紙「西北新報」で『郷土文壇』を津島修治の名で発表。
  • 1月3日:井伏鱒二の家を訪問。この日、「太宰治」の筆名が決定したと推定される
  • 2月:荻窪の家に移転する。
  • 2月15日:「海豹通信 第4便」に『田舎者』を太宰治の名で発表。以後、太宰治の筆名で通す。
  • 2月19日:「サンデー東奥 第203号」で『列車』を発表。「懸賞創作入選」作品となる。
  • 3月1日:「海豹 創刊号」で『魚服記』を発表。
  • 3月25日:「海豹通信 第7便」で『魚服記に就て』を発表。
  • 4月1日:「海豹 4月号」から『思い出』の連載を開始。
  • 7月下旬:檀一雄と知り合い、親しくなる。
  • 12月23日:本来は、大学を卒業する予定の年であったが留年。長兄 文治にバレて、叱責される。
1933年の日本
  • 満州国が認められなかったため、国際連盟から脱退。国際的に孤立し始めた。

昭和9年(1934年|26歳)

  • 4月1日:「文藝春秋 4月号」に、井伏鱒二との合作『洋之助の気焔』を発表。井伏が多用のため、太宰に代作させた。
  • 同日:文化研究誌「文化公論 4月号」で、『断崖の錯覚』を黒木舜平の名で発表。
  • 4月11日:文芸誌「鷭 第1集」で『葉』を発表。
  • 7月1日:「鷭 第2集」で『猿面冠者』を発表。
  • 7月末頃:静岡県三島市に1ヵ月ほど滞在し、『ロマネスク』を執筆。
  • 7月1日:文芸誌「世紀 10月号」で『彼は昔の彼ならず』を発表。
  • 12月1日:文芸同人誌「青い花」を創刊し、『ロマネスク』を発表。青い花には、檀一雄や中原中也、山岸外史らが参加したが、この号で廃刊。
1934年の日本
  • 中原中也が『山羊の歌』を発表した。

昭和10年(1935年|27歳)

  • 2月1日:文芸誌「文藝 2月号」で『逆行』を発表。
  • 3月:大学卒業は絶望となる。都新聞社の入社試験を受けるも失敗。
  • 3月16日:鎌倉で首吊り自殺を試みるも、未遂に終わる
  • 4月4日:腹痛を訴え、そのまま入院。術後は、医師から毎日のように、鎮痛剤パビナールの注射を受ける。以降、パビナール中毒に苦しむようになる
  • 5月1日:文芸誌「日本浪曼派 5月号」で『道化の華』を発表。
  • 7月1日:千葉県船橋市の家に移転
  • 同日:「作品 7月号」で『玩具』と『雀こ』を発表。
  • 7月末:『逆行』が第1回芥川賞の候補作となる
  • 8月1日:「日本浪曼派 8月号」で『もの思う葦』を発表。
  • 同日:「文藝 8月号」で『今月の便り』を発表。
  • 8月10日:『逆行』が芥川賞を逃す
  • 8月21日:芥川賞の選考に関わった佐藤春夫の家を訪問し、以後、師事する。
  • 8月下旬:知人を通じて、鰭崎潤という洋画家が船橋の家を訪ねてくる。以後、彼とはキリスト教について話すように。
  • 9月1日:「文学界 9月号」で『猿ヶ島』を発表。
  • 9月上旬:田中英光の作品を読んで感動し、手紙を送る。以後、田中は太宰に師事し始める。
  • 10月1日:川端康成の「芥川賞選評」を読んで激怒した太宰は、「文藝通信 10月号」で『川端康成へ』という反論を発表。
  • 同日:「文藝春秋 10月号」で『ダス・ゲマイネ』を、「日本浪曼派 10月号」で『もの思う葦(二)』を発表。
  • 11月1日:「日本浪曼派 11月号」で『もの思う葦(三)』を発表。
  • 12月1日:「新潮 12月号」で『地球図』を発表。
1935年の日本
  • 川端康成が『雪国』を発表した。

昭和11年(1936年|28歳)

  • 1月1日:「新潮 新年特大号」で『めくら草紙』を、「日本浪曼派 1月号」で『碧眼托鉢』を、「東奥日報」で『人物について』をそれぞれ発表。
  • 2月9日:佐藤春夫の紹介で、パビナール中毒の治療のために10日間ほど入院するも、完治せず。
  • 4月1日:「文藝雑誌 4月号」で『陰火』を発表。
  • 5月1日:「若草 5月号」で『雌について』を、「文藝懇話会 5月号」で『古典竜頭蛇尾』をそれぞれ発表。
  • 6月1日:「文藝 6月号」で『悶悶日記』を発表。
  • 6月25日:初の創作集『晩年』を刊行
  • 7月1日:「文学界 7月号」で『虚構の春』を発表。
  • 7月11日:上野精養軒で『晩年』の出版記念会が開かれる。
  • 7月25日:「蔵前新聞」で『走ラヌ名馬』を発表。
  • 10月1日:「新潮 10月号」で『創世記』を、「若草 10月号」で『喝采』を、「東陽 10月号」で『狂言の神』をそれぞれ発表。
  • 10月13日:井伏鱒二らに説得され、パビナール中毒の治療のために再び入院。閉鎖病棟へ入れられる。
  • 11月1日:「文藝通信 11月号」で『先生三人』を発表。
  • 11月12日:パビナール中毒を全治し、退院する。船橋の家は処分してしまったため、荻窪のアパートに住み始める
  • 11月25日:熱海温泉に赴き、執筆活動をする。その後、檀一雄が太宰の妻の依頼を受けて宿泊費を届けに来たが、二人で使い果たしてしまう。太宰は檀を熱海に残して、金を工面しに帰京する。結局、井伏鱒二が支払いをする。
1936年の日本
  • 陸軍の青年将校が首相官邸や警視庁などを襲う「二・二六事件」が起こった。

昭和12年(1937年|29歳)

  • 1月1日:「改造 新年号」で『二十世紀旗手』を、「西北新報 506号」で『春夫と旅行できなかった話』をそれぞれ発表。
  • 1月20日:「早稲田大学新聞」で『音について』を発表。
  • 3月1日:「若草 3月号」で『あさましきもの』を発表。
  • 3月上旬:太宰が入院中に妻の初代が不倫していたことが発覚。
  • 3月中旬:初代とともに群馬県の谷川温泉を訪ね、カルモチンによる心中を図るも、未遂に終わる。その後、二人は別居する。
  • 4月1日:「新潮 4月号」で『HUMAN LOST』を発表。
  • 6月1日:創作集『虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ』を刊行。
  • 6月中旬:初代との離別が決定し、荻窪の下宿へ引っ越す。
  • 7月20日:創作集『二十世紀旗手』を刊行。
  • 9月1日:「日本浪曼派 9月号」で『檀君の近業について』を発表。
  • 10月1日:「若草 10月号」で『燈籠』を発表。
  • 12月1日:「文藝 12月号」で『思案の敗北』を発表。
  • 12月10日:「日本学藝新聞」で『創作余談』を発表。
1937年の日本
  • 日本と同じく、国際的に孤立していたドイツ・イタリアと3国で「日独伊三国防共協定」を結んだ。
  • 支配を拡大しようとする関東軍と中国の間で対立が深まり、日中戦争へと発展した。

昭和13年(1938年|30歳)

  • 2月1日:「文筆 2月号」で『晩年について』を発表。
  • 3月1日:「新潮 3月号」で『一日の労苦』を発表。
  • 5月1日:「あらくれ 5月号」で『多頭蛇哲学』を発表。
  • 6月頃:「原稿生活者」を志し、本気で執筆を始める。
  • 7月1日:「月刊文章 7月号」で『答案落第』を発表。
  • 8月1日:「日本浪曼派 8月号」で『緒方氏を殺した者』を、「文筆 8月号」で『一歩前進二歩退却』をそれぞれ発表。
  • 9月1日:「文筆 9月号」で『満願』を発表。
  • 9月13日:井伏鱒二が滞在していた、富士山近くの天下茶屋で逗留を始める。
  • 9月18日:井伏に付き添われ、石原美知子とお見合いをする
  • 10月1日:「新潮 10月号」で『姥捨』を発表。
  • 10月6日:「国民新聞」で『富士に就いて』を発表。
  • 10月30日:「帝国大学新聞」で『校長三代』を発表。
  • 11月1日:「日本文学 11月号」で『女人創造』を発表。
  • 11月6日:石原家で美知子との結婚披露の宴が催される
  • 11月16日:甲府市の下宿に引っ越す
  • 11月27日:「かむろ」で『むかしの亡者』を発表。
  • 12月9日:「国民新聞」で『九月十月十一月』の連載を開始。
1938年の日本
  • 「国家総動員法」が成立し、政府は議会の承認なしに、戦争に必要な物資や労働力の動員ができるようになった。

職業作家時代

昭和14年(1939年|31歳)

  • 1月8日:井伏鱒二宅で、石原美知子との結婚式が挙行される。その後、甲府市で借りた家で、美知子と同棲を始める。これ以後、美知子に口述筆記をしてもらうようになる。
  • 2月1日:「若草 2月号」で『I can speak』を、「文体 2月号」で『富嶽百景』をそれぞれ発表。
  • 3月1日:「文体 3月号」で『続、富嶽百景』を発表。
  • 3月2日:「国民新聞」で『黄金風景』の連載を開始。
  • 4月1日:「文学界 4月号」で『女生徒』を、「文藝 4月号」で『懶惰の歌留多』をそれぞれ発表。
  • 5月3日:美知子と信州へ2泊の旅行をする。
  • 5月9日:「国民新聞」で『当選の日』の連載を開始。
  • 5月15日:「帝国大学新聞」で『正直ノオト』を発表。
  • 5月20日:書き下ろしの短編集『愛と美について』を刊行。『読者に』『秋風記』『新樹の言葉』『花燭』『愛と美について』『火の鳥』を収録。
  • 6月1日:「若草 6月号」で『葉桜と魔笛』を、「月刊文章 6月号」で『春昼』をそれぞれ発表。
  • 7月1日:「作品 7月号」で『ラロシフコー』を発表。
  • 7月10日:「文筆 初夏随筆号」で『「人間キリスト記」その他』を発表。
  • 7月20日:創作集『女生徒』を刊行。
  • 8月1日:「新潮 8月号」で『八十八夜』を発表。
  • 9月1日:三鷹の借家へ移転する
  • 同日:「文学者 9月号」で『座興に非ず』を発表。
  • 10月1日:「月刊文章 10月号」で『美少女』を、「文学者 10月号」で『畜犬談』を、「若草 10月号」で『ア、秋』をそれぞれ発表。
  • 10月19日:「文藝世紀 11月号」で『デカダン抗議』を発表。
  • 11月1日:「婦人画報 11月号」で『おしゃれ童子』を、「文学界 11月号」で『皮膚と心』をそれぞれ発表。
  • 12月1日:「文藝日本 12月号」で『市井喧争』を発表。
1939年の日本
  • ドイツがポーランドへ侵攻したことで、第2次世界大戦が始まった。
  • 日本は、ドイツに降伏したヨーロッパ諸国の植民地を影響下に置くため、東南アジアへ進出し始めた。

昭和15年(1940年|32歳)

  • 1月1日:「月刊文章 新年号」で『女の決闘』の連載を開始。
  • 同日:「新潮 新年特大号」で『俗天使』を、「婦人画報 新年特大号」で『兄たち』を、「知性 新年号」で『鴎』を、「文藝日本 壱月号」で『春の盗賊』を、「作品倶楽部 1月号」で『女人訓戒』をそれぞれ発表。
  • 1月20日:「懸賞界 1月下旬号」で『困惑の弁』を発表。
  • 1月25日:「三田新聞」で『心の王者』を発表。
  • 1月30日:「国民新聞」で『このごろ』の連載を開始。
  • 2月1日:「中央公論 2月号」で『駆込み訴へ』を発表。
  • 2月11日:「月刊東奥 2月号」で『金木の旧正月』を発表。
  • 2月12日:「帝国大学新聞」で『鬱屈禍』を発表。
  • 3月1日:「婦人画報 3月号」で『老ハイデルベルヒ』を、「知性 3月号」で『酒ぎらひ』を、「書物展望 3月号」で『知らない人』を、「新潮 3月号」で『無趣味』をそれぞれ発表。
  • 3月25日:「都新聞」で『作家の像』の連載を開始。
  • 3月30日:「月刊文化学院 2月号」で『諸君の位置』を発表。
  • 4月1日:「若草 4月号」で『誰も知らぬ』を、「文藝 4月号」で『善蔵を思ふ』を、「文学者 4月号」で『義務』を、「物資と配給 4月号」で『三月三十日』をそれぞれ発表。
  • 4月20日:創作集『皮膚と心』を刊行。
  • 5月1日:「新潮 5月号」で『走れメロス』を発表。
  • 6月1日:「知性 6月号」で『古典風』を発表。
  • 同日:創作集『思ひ出』を刊行。
  • 6月2日:「東京朝日新聞」で『自信の無さ』を発表。
  • 6月13日:「新風 創刊号」で『盲人独笑』を発表。
  • 6月15日:創作集『女の決闘』を刊行。
  • 同日:「相撲 6月号」で『「武技」よりも「藝技」』を発表。
  • 7月1日:「月刊文章 7月号」で『乞食学生』の連載を開始。
  • 7月3日:静岡県の湯ヶ野温泉で『東京八景』の執筆を開始。後に迎えに来た美知子夫人と帰京の際、水害に遭う。
  • 7月5日:「博浪抄 7月号」で『六月十九日』を発表。
  • 8月5日:「京都帝国大学新聞」で『貪婪禍』を発表。
  • 9月1日:「月刊文章 9月号」で『自作を語る』を、「東西 9月号」で『失敗園』をそれぞれ発表。
  • 10月上旬:東京商科大学で講演をする。
  • 10月12日:「文藝世紀 11月号」で『一燈』を発表。
  • 10月30日:「文筆 5周年記念号」で『浪漫万歳』を発表。
  • 10月31日:「現代文学 11月号」で『パウロの混乱』を発表。
  • 11月1日:「新潮 11月号」で『きりぎりす』を発表。
  • 11月5日:短編ラジオ小説『ある画家の妻』が放送される。この台本が、のちに『リイズ』となる。
  • 11月16日:新潟高等学校から招かれて、講演をする。翌日からは、佐渡島を訪ねる。
  • 11月25日:「帝国大学新聞」で『かすかな声』を発表。
  • 12月1日:「婦人画報 12月号」で『ろまん燈籠』の連載を開始。

昭和16年(1941年|33歳)

  • 1月1日:「文学界 正月号」で『東京八景』を、「知性 1月号」で『みみずく通信』を、「公論 新年号」で『佐渡』を、「新潮 新年号」で『清貧譚』を、「日本映画 新年号」で『弱者の糧』を、「西北新報」で『五所川原』をそれぞれ発表。
  • 1月5日:「都新聞」で『男女川と羽左衛門』を発表。
  • 1月11日:「月刊東奥 新年号」で『青森』を発表。
  • 2月1日:「文藝春秋 2月号」で『服装に就いて』を発表。
  • 5月3日:創作集『東京八景』を刊行。
  • 6月1日:「新女苑 6月号」で『令嬢アユ』を、「改造 6月号」で『千代女』をそれぞれ発表。
  • 6月5日:「博浪抄 6月号」で『容貌』を発表。
  • 6月7日:長女 園子が誕生する
  • 6月20日:「文筆 夏季版」で『「晩年」と「女生徒」』を発表。
  • 7月2日:初の書き下し中編小説『新ハムレット』を刊行。
  • 7月10日:「日本学藝新聞」で『私の著作集』を発表。
  • 8月17日:衰弱した母を見舞うため、10年ぶりに帰京する。
  • 8月25日:創作集『千代女』を刊行。
  • 9月上旬頃:太田静子らの訪問を受ける。
  • 10月15日:「早稲田大学新聞」で『世界的』を発表。
  • 11月1日:『風の便り』の前半を「文学界 11月号」で、後半を「文藝 11月号」で発表する。
  • 11月15日:徴兵のための身体検査を受けるも、肺に疾患があり、免除となる。
  • 12月1日:「知性 12月号」で『誰』を発表。
  • 12月2日:「都新聞」で『私信』を発表。
1941年の日本
  • 東南アジアへの進出を続ける日本に対し、アメリカが石油の輸出を禁止。その後、日本は各国から経済封鎖を受けた。
  • 日米の衝突を回避するための交渉は決裂し、日本は真珠湾を奇襲。太平洋戦争が始まった。

昭和17年(1942年|34歳)

  • 1月1日:「婦人画報 新年号」で『恥』を、「新潮 新年号」で『或る忠告』と『新郎』をそれぞれ発表。
  • 同日:私家版の『駈込み訴へ』を刊行。
  • 1月5日:「博浪抄」で『食通』を発表。
  • 2月1日:「婦人公論 2月号」で『十二月八日』を、「若草 2月号」で『律子と貞子』をそれぞれ発表。
  • 4月11日:「藝術新聞」で『一問一答』を発表。
  • 4月16日:創作集『風の便り』を刊行。
  • 5月1日:「改造 5月号」で『水仙』を発表。
  • 5月20日:創作集『老ハイデルベルヒ』を刊行。
  • 6月10日:書き下し中編小説『正義と微笑』を刊行。
  • 6月28日:「現代文学 7月号」で無題の随想を発表。
  • 6月30日:創作集『女性』を刊行。
  • 7月1日:「新潮 7月号』で『小さいアルバム』を発表。
  • 7月11日:「藝術新聞」で『炎天汗談』を発表。
  • 7月13日:「新日本文学全集月報 16号」で『小照』を発表。
  • 9月5日:「みつこし」で『天狗』を発表。
  • 10月1日:「文藝 10月号』で『花火』を発表。
  • 10月頃:「箏 第1集」で『文盲自嘲』を発表。
  • 10月27日:母が重体との連絡を受け、帰郷。
  • 12月10日:母 タ子が亡くなる(享年70歳)。
  • 12月28日:「現代文学 新年号』で『禁酒の心』を発表。
1942年の日本
  • 太平洋におけるミッドウェー海戦で大敗北。以降、戦局は日本の劣勢となった。

昭和18年(1943年|35歳)

  • 1月1日:「新潮 新年号」で『故郷』を、「文学界 新年号」で『黄村先生言行録』をそれぞれ発表。
  • 1月10日:創作集『富嶽百景』を刊行。
  • 4月1日:「文学界 4月号」で『鉄面皮』を発表。
  • 5月1日:「新潮 5月号」で『赤心』を発表。
  • 6月15日:「八雲 第2集」で『帰去来』を発表。
  • 7月28日:「現代文学 8月号」で『わが愛好する言葉』を発表。
  • 9月25日:書き下し中編小説『右大臣実朝』を刊行。
  • 10月1日:「文藝世紀 10月号」で『不審庵』を、「文庫 10月号」で『作家の手帖』を、「雑誌日本 10月号」で『金銭の話』をそれぞれ発表。
1943年の日本
  • 学生が徴兵される「学徒出陣」や、生徒や女性が軍需工場で働かされる「勤労動員」が行われるようになった。
  • 谷崎潤一郎が『細雪』を発表した。

昭和19年(1944年|36歳)

  • 1月1日:「改造 新年号」で『佳日』を、「新潮 新年号」で『裸川』をそれぞれ発表。
  • 1月中旬:神奈川県下曽我村の太田静子を訪ねる。
  • 1月13日:「東京新聞」で『横綱』を発表。
  • 1月25日:「殉公団時報 第70号」で『革財布』を発表。
  • 3月1日:「新若人 3月号」で『散華』を発表。
  • 4月1日:「映画評論 4月号」で『芸術ぎらひ』を発表。
  • 5月1日:「少女の友 5月号」で『雪の夜の話』を、「文藝 5月号」で『義理』をそれぞれ発表。
  • 5月12日:『津軽』執筆のために、津軽旅行へ出発。
  • 5月23日頃:金木町の生家に逗留。
  • 5月27日:幼い頃の太宰の教育係だった、越野タケと30年ぶりに再会。
  • 6月5日:三鷹の家に帰宅。
  • 7月23日:先のパートナー、小山初代が中国の青島で病没(享年33歳)。
  • 8月10日:長男の正樹が誕生
  • 同日:「文学報国」で『東京だより』を発表。
  • 8月20日:創作集『佳日』を刊行。
  • 9月:『佳日』を映画化した作品『四つの結婚』が封切られる。
  • 10月1日:「新潮 10月号」で『人魚の海』を発表。
  • 10月16日:「東京新聞」で『純真』を発表。
  • 11月1日:「月刊東北」で『女賊』を発表。
  • 11月15日:書き下し作品『津軽』を刊行。
  • 12月20日:『惜別』執筆のための調査で、仙台へ向かう。
1944年の日本
  • サイパン島が陥落。以後、米軍機による本土空襲が激化した。
  • 空襲を逃れるため、疎開が始まった。

昭和20年(1945年|37歳)

  • 1月27日:創作集『新釈諸国噺』を刊行。
  • 3月:妻子を甲府にある美知子の実家へ疎開させる
  • 4月1日:「文藝 4月号」で『竹青』を発表。
  • 4月2日:三鷹の家が空襲に遭って、一部損壊する。その後、太宰も甲府へ避難する
  • 7月6日:甲府市街も空襲を受ける。
  • 7月28日:さらに難を逃れるため、津軽へ向かう
  • 7月31日:金木の生家に辿り着く。
  • 8月15日:終戦。
  • 9月5日:書き下し作品『惜別』を刊行。
  • 10月22日:「河北新報」と「東奥日報」で『パンドラの匣』の連載を始める。
  • 10月25日:書き下し創作集『お伽草子』を刊行。『瘤取り』『浦島さん』『カチカチ山』『舌切雀』を収録。
1945年の日本
  • 3月10日に、東京大空襲が起こった。
  • 4月にアメリカ軍が沖縄に上陸した。
  • 原子力爆弾が8月6日に広島に、8月15日に長崎に投下された。
  • 8月14日、日本の無条件降伏が謳われた「ポツダム宣言」を受諾。
  • 8月15日正午、天皇のラジオ放送で国民に戦争終結が発表された。
  • 戦後、国際連盟が設立された。
  • GHQの指示で「農地改革」が実行され、以後、大地主たちの力が急激に弱まった。
  • 物資不足から、闇市での取引が公然と行われた。

流行作家時代

昭和21年(1946年|38歳)

  • 1月1日:「新小説 1月号」で『庭』を発表。
  • 1月28日:「新風 創刊号」で『親といふ二字』を発表。
  • 2月1日:「新潮 2月号」で『嘘』を、「婦人朝日 創刊号」で『貨幣』をそれぞれ発表。
  • 2月6日:母校の青森中学校で講演をする。
  • 3月1日:「月刊読売 3月号」で『やんぬる哉』を発表。
  • 4月1日:「文化展望 4月号」で『十五年間』を発表。
  • 5月1日:「東西 5月号」で『返事』を、「潮流 5月号」で『未帰還の友に』をそれぞれ発表。
  • 5月15日:「アサヒグラフ」で『津軽地方とチエホフ』を発表。
  • 6月1日:「展望 6月号」で『冬の花火』を発表。
  • 6月5日:小説『パンドラの匣』を刊行。
  • 6月10日:「新文藝 第3号」で『苦悩の年鑑』を発表。
  • 6月15日:「東奥日報」で『政治家と家庭』を発表。
  • 7月1日:「文学通信 7月号」で『海』を発表。
  • 7月10日:「藝術 第1号」で『チヤンス』を発表。
  • 9月1日:「人間 9月号」で『春の枯葉』を発表。
  • 10月1日:「思潮 第3号」で『雀』を発表。
  • 11月1日:「東北大学 11月号」で『たづねびと』を発表。
  • 11月12日:金木を出発し、東京へ向かう。
  • 11月14日:三鷹の居宅へ帰ってくる
  • 11月20日:創作集『薄明』を刊行。
  • 11月25日:坂口安吾、織田作之助らと座談会に出席。その夜、銀座の酒場「ルパン」で一緒に酒を飲む。
  • 12月1日:「改造 12月号」で『男女同権』を、「新潮 12月号」で『親友交歓』をそれぞれ発表。
  • 12月14日:文学青年グループの集まりに招かれ、三島由紀夫と会う。
1946年の日本
  • 戦犯容疑者を裁く「東京裁判」が始まった。
  • 日本国憲法が公布された。
  • 坂口安吾が『堕落論』を発表した。

昭和22年(1947年|39歳)

  • 1月1日:「群像 新年号」で『トカトントン』を、「中央公論 新年号」で『メリイクリスマス』を、「鱒 第1号」で『同じ星』をそれぞれ発表。
  • 1月10日:織田作之助が肺結核で逝去する(享年35歳)。
  • 1月13日:「東京新聞」で『織田君の死』を発表。
  • 1月30日:『パンドラの匣』が『療養日誌』の題で、ラジオ放送される。
  • 2月21日:日記を借りるために、神奈川県下曽我村の太田静子を訪ねる
  • 3月1日:「新潮 3月号」で『母』を、「展望 3月号」で『ヴィヨンの妻』をそれぞれ発表。
  • 3月27日:三鷹駅前の屋台で山崎富栄と知り合う。
  • 3月30日:次女の里子が誕生。
  • 4月1日:「人間 4月号」で『父』を発表。
  • 5月1日:「日本小説 創刊号」で『女神』を発表。
  • 5月中旬:この頃から、体調が優れなくなる。
  • 5月27日:『春の枯葉』がラジオ放送される。
  • 7月:『パンドラの匣』が『看護婦の日記』の題で映画化される。
  • 7月1日:「新潮 7月号」で『斜陽』の連載を開始。
  • 同日:「日本小説 6・7月号」で『フォスフォレッスセンス』を発表。
  • 7月5日:創作集『冬の花火』を刊行。
  • 7月10日:創作集『ろまん燈籠』を刊行。
  • 同日:「新思潮 創刊号」で『朝』を発表。
  • 8月5日:創作集『ヴィヨンの妻』を刊行。
  • 10月1日:「改造 10月号」で『おさん』を発表。
  • 11月15日:太田静子が太宰との子ども、治子を産む
  • 11月17日:「朝日新聞」で『小志』を発表。
  • 12月15日:小説『斜陽』を刊行し、たちまちベストセラーとなる
1947年の日本
  • 地方自治法が成立し、都道府県知事と市町村長が公選制となった。

昭和23年(1948年|40歳)

  • 1月1日:「中央公論 新年号」で『犯人』を、「光 新年号」で『饗応婦人』を、「地上 新年号」で『酒の追憶』を、「ろまねすく 新年号」で『かくめい』をそれぞれ発表。
  • 2月4日:『春の枯葉』が舞台で上演される。
  • 3月1日:「日本小説 3月号」で『美男子と煙草』を、「小説新潮 3月号」で『眉山』をそれぞれ発表。
  • 同日:「新潮 3月号」で『如是我聞』の連載を開始する。
  • 3月7日:熱海の旅館 起雲閣の別館に滞在。『人間失格』を執筆する。
  • 3月21日:『太宰治随想集』を刊行。
  • 4月1日:「八雲 4月号」で『女類』を、「群像 4月号」で『渡り鳥』を、「文藝時代 4月号」で『徒党について』をそれぞれ発表。
  • 4月上旬:三鷹の仕事部屋で、『人間失格』の続きを執筆する。
  • 4月20日:『太宰治全集』の刊行が始まる。
  • 4月下旬:大宮で部屋を間借りして、『人間失格』の続きを執筆する。
  • 5月1日:「世界 5月号」で『桜桃』を発表。
  • 6月1日:「展望 6月号」で『人間失格』の第1回を発表。
  • 6月13日:山崎富栄とともに、玉川上水へ入水する
  • 6月19日:遺体が見つかる。
  • 6月21日:「朝日新聞」で『グッド・バイ』の連載が開始される。
  • 7月1日:「展望 7月号」で『人間失格』の第2回が発表される。
  • 同日:「月刊読物」で『黒石の人たち』が発表される。
  • 7月18日:三鷹の禅林寺に葬られる。
  • 7月25日:小説『人間失格』と、創作集『桜桃』が刊行される。
  • 8月1日:「展望 8月号」で『人間失格』の第3回が発表され、完結する。
  • 同日:「中央公論 8月号」で『家庭の幸福』が発表される。
  • 11月10日:随想『如是我聞』が刊行される。

昭和24年(1949年)

  • 6月19日:一周忌。以降、太宰の忌日は「桜桃忌」と呼ばれる。

まとめ

本記事では、太宰の生涯を年表形式で紹介しました。

なお、記事を執筆するにあたっては、以下の書籍を参考にしています。

それぞれの書籍の概要については下記の記事にまとめていますので、ご興味のある方は、併せてご覧ください。

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