太宰治

太宰治の中学生時代|文学に目覚め、創作活動を開始。

本記事では、太宰治の中学時代の様子を見ていきます。

なお、太宰が中学校へ入学するまでの「幼少期」については、下記の記事で紹介していますので、ご興味があれば併せてご覧ください。

また、記事中の年齢は、当時の慣例にならって「数え年」で表記しています。

現在、一般的となっている「満年齢」に変換したい場合は、表記の年齢から1歳引いてお考えください。

数え年とは?

生まれた時点の年齢を「1歳」として、それ以降は「正月を迎えるたびに1歳ずつ加える」という年齢の数え方。

県立青森中学校へ進学

▼後列右が、中学生時代の太宰。
 ちなみに、後列左は太宰の弟の礼治。前列は右から、次男の英治、長男の文治、三男の圭治。

中学生の太宰
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.16

受験の末、地元の青森県金木村からは少し離れた、県立青森中学校へ進学することになった、太宰治(本名:津島修治)。

中学へ通うにあたっては、青森市内に住んでいた親戚の呉服商、「豊田家」に下宿することになりました。

この豊田家は、叔母のきゑの2番目の夫で、若くして亡くなってしまった「常吉」の実家です。

常吉の家系図

下宿先と中学校のある青森市は、県内では栄えている町で、太宰は都会での生活に浮かれていました。

後に発表した『思い出』という作品では、自身の中学時代を振り返り、以下のように書いています。

私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持っているが、入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると、私は笑いながらそれへ軽く会釈をしたものである。

さて、中学校へ入学した時点で、太宰は級友たちと比べて、「1年の遅れ」がありました

これは、通常の進学ルートでは、「尋常小学校を卒業後、すぐに中学校へ進学」する生徒が多かったのに対し、太宰は「尋常小学校を卒業後、1年間高等小学校に通ってから、中学校へ進学」していたからです。

太宰の“1年の遅れ”

このため、必然的に太宰の同学年の生徒は年齢が1つ下の者が多く、1学年上には、尋常小学校で自分より成績が悪かった、かつての同級生たちがいました。

これは、プライドの高い太宰にとって、耐え難いほどの大きな屈辱です。

そこで太宰は中学を卒業するまでに、周りから遅れてしまった1年を取り戻そうとします。

その挽回する手段が、「四修」です。

当時の中学校は5年制でしたが、成績優秀者に限っては「四修」が認められ、4年で中学を卒業して、飛び級で高等学校などへ進学できました

ちなみに、この制度を活用して、高等学校へ進む学生の割合は「全体の約20%」だったことから、四修は「秀才の証」でもありました。

太宰は、この四修の該当者になれれば、1学年上にいる、かつての同級生たちと一緒に卒業できます。

四修

そこで太宰は四修を目指して、密かに猛勉強を始めたのでした。

文学に目覚める

こうして勉学に励んでいた太宰ですが、もちろん机に向かってばかりでは、疲れてきてしまいます。

そんなときに、太宰の心を癒してくれたのが「本」でした

下宿先の近所には、歩いて15分ほどのところに大きな本屋があり、太宰は勉強に疲れると、よくそこへ通っていたといいます。

このため、彼の部屋の押入れには、当時流行していた小説や雑誌がぎっしりと詰まっており、なかでもお気に入りだった作家は、芥川龍之介菊池寛の2人でした。

当時の芥川は、年齢は30歳過ぎで、すでに『羅生門』『鼻』『蜘蛛の糸』など、現在まで読み継がれる名作を発表し、人気作家としての地位を確立していました。

また、菊池寛は30代半ばで、もちろん作家としても人気でしたが、ちょうどこの頃、今なお続く「文藝春秋」を創刊しています。

そんな2人の作品を、太宰は勉強の合間に読み耽っていました。

この太宰の読書好きは、「教育係のタケに本の読み方を教えてもらったこと」が最初のきっかけでしたが、すぐ上の兄である「圭治」からの影響も大きかったと考えられます。

▼津島家の三男の圭治

津島圭治
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.4

当時、東京に住んでいた圭治は、「十字街」という同人雑誌に参加し、「夢川利一」の筆名で作品を発表するほどの文学青年でした。

文人たちとも交流があり、川端康成が自身初の創作集『感情装飾』を刊行した際の出版記念会にも参加しています。

ちなみに、その川端の記念会には、菊池寛や横光利一もいました。

太宰は、この圭治から人気作家や新進作家のことを教えてもらい、彼が東京から送ってくれる同人雑誌を読んで、文学の知識を蓄えていました。

はじめての創作

本を読み続けた太宰は、しだいに読むだけでは飽き足らなくなり、自分でも作品を書こうと思い立ちます。

そうして中学2年生(17歳)の時に、青森中学の『校友会誌』で発表したのが、『最後の太閤』という作品でした。

この『最後の太閤』は、太宰が世に発表した作品で、現在確認できるなかでは一番古いものです。

『最後の太閤』の詳細は、下記の記事で詳しくお伝えしていますので、ご興味があれば併せてご覧ください。

『最後の太閤』の評判がよかったのか、太宰は中学3年生になると、仲間を集めて自分で同人雑誌を立ち上げることにします。

このときに創刊したのが「星座」という雑誌で、創刊号では『虚勢』という戯曲を発表しました

なぜ、演劇の台本形式である戯曲を書いたのかというと、これには太宰の「芝居好き」が関係しています。

太宰の『思い出』という作品では、彼の芝居好きが伺える、下記のエピソードが登場します。

村の芝居小屋の舞台開きに東京の雀三郎一座というのがかかったとき、私はその興業中いちにちも欠かさず見物に行った。(中略)その興行が済んでから、私は弟や親類の子らを集めて一座を作り自分で芝居をやって見た。

この芝居好きが高じて書かれた『虚勢』の詳細については、下記の記事をご参照ください。

「蜃気楼」を立ち上げる

▼「蜃気楼」創刊1周年を記念して撮られた写真。太宰は、後列の右から2番目。

「蜃気楼」創刊1周年記念写真
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.17

さて、せっかく立ち上げた「星座」でしたが、仲間たちが対等な関係を主張し始めたことから衝突し、結局は創刊号のみで廃刊となります。

そこで、次に立ち上げることにした蜃気楼」という同人雑誌では、「星座」での失敗を活かし、太宰は「主幹」として編集のトップに座りました

▼「蜃気楼」創刊号

「蜃気楼」創刊号
出典:『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』太宰治,新潮社,1983,p.50

同人の参加を呼びかける際も、親しい人に限定して声をかけています。

こうして創刊された「蜃気楼」の運営はうまくいき、太宰は1年以上にわたってほぼ毎月、雑誌内で作品を発表し続けました。

「蜃気楼」で発表した作品は、以下のとおりです。

「蜃気楼」の概要や雑誌内で発表した作品については、下記の記事にまとめましたので、よろしければご覧ください。

この「蜃気楼」で発表された太宰の作品には、芥川龍之介からの影響が色濃く見られます

これは、太宰が特に芥川へ憧れを抱いていたことを意味しますが、その背景には「2人は幼少期に似たような境遇だった」という事実があります。

実は、太宰と芥川は2人とも、実母に育てられていません。

まず太宰は、生まれた頃に実母のたねの体調が優れなかったことから、彼には乳母が付けられ、その乳母がいなくなってからは、叔母のきゑに育てられました。

一方で芥川も、生まれてすぐに母親が精神を病んでしまったため、母方の実家に預けられ、伯母に育てられています。

この芥川の生い立ちは、自伝的小説である『大導寺信輔の半生』や『点鬼簿』にも書かれており、太宰はこれらの作品を読んで、芥川への共感を強めたものと思われます。

▼『大導寺信輔の半生』と『点鬼簿』の青空文庫はこちら

>>ブラウザ上で『大導寺信輔の半生』の青空文庫を読む

>>ブラウザ上で『点鬼簿』の青空文庫を読む

兄の圭治と「青んぼ」を作る

▼「青んぼ」第2号

「青んぼ」第2号
出典:『図説 太宰治』日本近代文学館,筑摩書房,2000,p.35

太宰は「蜃気楼」の各号が完成するたびに、東京にいる兄の圭治へ送り、彼からの批評を受けていました。

そして、中学4年生の夏休みには、実家に帰省していた圭治と一緒に、「青んぼ」という小冊子を作ります

このタイトルの由来は、圭治が太宰が作っている「蜃気楼」を「赤んぼ」だとからかい、「もう少し大人っぽいものを作ろう」ということで、「青んぼ」と命名されました。

この「青んぼ」に参加したのは、津島家の長男である文治や、近所に住んでいた太宰と圭治の文学仲間たちです。

「青んぼ」で太宰は、以下の作品を発表しました。

ちなみに、太宰の兄たちは、「青んぼ」で以下の作品を書いています。

  • 長男 文治:『めし』
  • 三男 圭治:『初秋の哀唱』、『少女小風景』

なお、美術学校へ通っていた圭治は、雑誌の表紙や挿絵のデザインも担当しました。

「青んぼ」は第2号まで刊行されましたが、夏休みの間の遊びのつもりだったのか、圭治が東京に戻ると自然に廃刊となってしまいます。

4年で中学校を卒業

▼太宰の中学時代の成績表。上から4番目に本名「津島修治」の名前が見える。

太宰の中学時代の成績表
出典:『図説 太宰治』日本近代文学館,筑摩書房,2000,p.32

太宰は創作活動に熱を入れた一方で、中学校を4年で卒業するための勉強も怠りませんでした。

成績は常に学年のトップ争いをし、当時の文学仲間たちは、「あれだけ熱心に創作活動をしていた彼が、一体いつ勉強していたのか不思議だ」と語っています。

そんな太宰はついに、入学当初から目指していた「四修」を達成し、最終的には学年4位の成績で、中学校を4年で卒業しました

そして、憧れの芥川が通っていた東京の「一高」を目指し、「蜃気楼」を休刊にして、受験勉強に励んだものの、残念ながら一高は不合格。

しかし、第2希望だった弘前高等学校には見事に合格し、昭和2年(1927年)の春から進学することになりました。

まとめ

本記事では、太宰治の中学時代を見てきました。

太宰のこれ以降の生涯については、また後日、別の記事で紹介する予定ですので、気長にお待ちいただければ幸いです。

なお、記事を執筆するにあたっては、以下の書籍を参考にしました。

それぞれの書籍の概要については下記の記事にまとめていますので、ご興味のある方は、併せてご覧ください。

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